[4]剣道の歴史

剣道の歴史を学ぶ

 これまで述べてきたとおり、私たちが現在行っている剣道は、古来からの刀剣操法術、すなわち刀剣を持って相手を制し、自己を守るための技術として起こり、発達してきたものであるということは、疑いのないことだと思います。

 しかし刀剣をとっての殺し合いが必要なくなった現代において、剣道を学び修練する目的は、昔と大きく変わってきています。

 剣道が武術本来の姿を離れてスポーツ化してしまったと言われ始めて久しいですが、

 「今、なぜに敢えて剣道なのか」
 そして
 「現代の剣道に何を求めて行くのか?」

 子供やその父兄らから時折寄せられる、こういった素朴な疑問に応えてゆくため、私たちも我が国の剣道の歴史・沿革を紐解いてみましょう。

 浅学な私ゆえ、以後の記述には言葉足らずな点、不正確な点が多々あるかと思いますが、どうぞご容赦ください。

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日本剣道の起源

 我が国において、古くから刀剣が非常に尊重されたことは、古事記や日本書紀などの古い書物によって知られています。

 これによると、日本の剣道の発祥は、神代の時代に、健御雷命(たけみかずちのみこと/鹿島神宮)と経津主命(ふつぬしのかみ/香取神宮)が、十握の剣(とつかのつるぎ)を抜いて地に立て、その鉾先に踞した「神術」より始まったとされています。

 また、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、神代からの剣道の奥義を「竜の巻」「虎の巻」の二巻に編述し、これを鹿島神宮に奉納せられたことから、以来我が国の剣道の全ての流派は、この竜虎二巻に由来するとも伝えられています。

 この「神術」がどのようなものなのかは不明ですが、高野佐三郎先生は、その著書「剣道」において、「十握剣」は、柄は、概ね20センチ(二握)位にして柄頭に大きな輪がついており、その形状から見て切先では切れにくく、神代における剣道は片手での元切り、または突きが主な技であったろうと述べています。

 もっとも、剣道の発祥を、単に剣を操作する技術の発祥とみるならば、その歴史はもっと古く原始時代まで遡らなければならないでしょう。もちろんこの時代に金属製の剣は無く、おそらく石や木の棒で作った武器を持って、それらの操作法が研究されていたものと思われます。

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刀剣の出現

 大和朝が統一された頃、すでに大陸から青銅や鉄で作られた金属製の剣が輸入されていたと考えられています。

 しかし当時にあって「剣」は大変希少価値の高いものであり、実用の武器と言うよりは、装飾性の強い神器的な性格のものであったろうと思います。

 したがって当時の剣道、すなわち運剣の術も、今日行われているような対敵技術としてではなく、祭りや祈りの際に神事として行われる一種の踊りのようなものではなかったかと想像されます。

 やがて時代が下り、鍛冶技術の進歩によって実戦に耐えうる鉄製の剣の制作が盛んになると、それまで皇族のみの所有であった装飾品としての剣が、実用的な武具として一般衛士や地方豪族らに行き渡るようになり、各地でこの運用法、つまり剣道の修行が盛んになります。

 書物によりますと、この頃の剣道は「多知宇技(たちうぎ)」または「多知宇知(たちうち)」などと呼ばれていたようです。

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中国式剣法

 大化改新以後は、中国との交流が盛んになり、剣道界でも中国式剣法である唐剣が流行します。

 これは平造り両刃の直刀で刺突主体の剣法でした。名称も唐文化の影響を受けて「撃剣」という漢文字をあて「タチウチ」呼ぶようになります。

 しかし、時を同じくして入ってきた仏教の影響により、やがて「武を卑しみて文弱に流れる」という風潮が蔓延し始めます。その結果、中央の権力は著しく衰え、国内の秩序は乱れて、剣道も衰退の極みに達してしまいました。

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武士の発生

 奈良朝末期、内政の貧困と重税による社会的秩序の混乱に対し、中央政府はすでにこれを鎮圧する力がなく、地方の豪族らは自らの土地を守るために武力を蓄え武芸に励むようになります。これが「武士」の発生です。

 力をつけた武士たちは、やがてその武力を背景として自らの領土と勢力の拡大をはかり、日本は長い内乱の時代に入って行きます。

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日本刀の登場

 打ち続く戦乱は、刀剣武器とその運用技術に長足の進歩を与えました。

 戦に馬が用いられるようになると、中国式の直刀は馬上からの刺突に向かないため、次第に槍に取って代わられるようになり、刀剣は刺突よりも薙ぎ切りに適した反りのあるものに変化して行きました。

 やがてこの反り刀は、長柄、すなわち柄の部分をどんどん長くしてゆく形状と、刀刃そのものを長大なものにしてゆく形状とに二極分化して発展し、前者は「なぎなた」という武器に、後者は「野太刀」「大太刀」などと呼ばれる、現在の日本刀の原型となる武器に進歩していったと考えられます。

 この時代の武士は、この長大な太刀に豪華な装飾を施した鞘を拵え、鎧の上から刀刃を下向きに吊して佩き、戦場で常時身につけて自らの武威の象徴としたため、ここに日本の中世武士独特の「佩刀」というスタイルと、この太刀を用いた薙ぎ切り主体の日本剣法が生まれました。

 また、国文学が盛んになり、中国漢文学の影響が薄れてくると、剣道の名称も「太刀打ち」という文字が使われるようになり、さらに武士にとって平常から身につけておくべき武技という意味で、「平法」という言葉も使われるようになったと言われています。

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剣術の発達

 長い戦乱の後、武士の頭領として源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、以後、武士階級の支配による新しい社会が近世に至るまで続きます。
 頼朝は謹倹尚武をとなえて、それを指導精神として政治を執り行ったため、それがそのまま武士の精神、武技の奨励となり、剣道の修練はいよいよ盛んになりました。

 室町中期以降、再び一般社会の秩序が乱れ、いわゆる下克上と呼ばれる戦国乱世の時代に突入します。このため、武士ばかりではなく、農民、商人、神人、僧侶に至るまで、武器を執り武技を身につけるようになりました。

 一方、1543年に種子島に鉄砲が伝来すると、それまでの鎧兜を身につけての騎馬主体による戦闘方式は、次第に軽装備での徒(かち)による地上白兵戦へと変化し、それに伴って大小様々の刀剣武器が工夫され発明されるようになり、同時にそれらを使いこなす洗練された武器繰法の技術が確立され始めました。

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流派と剣客

 戦国の時代、武芸に精進し武力のあるものは重要視され、出世の機会も多くなったことから、武道熱は急速に高まり、やがてその教習法が組織的に体系づけられて来ると、多くの流派とその専門的指導者が生まれました。

 日本剣道の三源流と言われる、神道(当)流の飯篠長威斎、影流の愛州移香、中条流の中条長秀を始めとして、上泉伊勢守、塚原卜伝、諸岡一羽などの名人・達人が、それぞれの流派の開祖となり、徳川時代の初期までには二百を越える流派が派生したと言われています。

 徳川時代に入ると、比較的平和な時代が続き、社会の秩序も整って、いわゆる「士農工商」の身分制度が確立されると、剣術は人を殺す技術から武士としての人間形成を目指す「活人剣」へと昇華し、技術論のみでなく生き方に関する心法にまで拡がってゆきました。

 柳生宗矩の「兵法家伝書」や臨済宗の名僧、沢庵宗彭が「剣と禅」を解説した「不動智神妙録」、また宮本武蔵の「五輪の書」などは、そうした思想を集大成した兵法書で、これらは現代の剣道家にも愛読される名著となっています。

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防具と竹刀の発明

 江戸時代の中期、正徳年間(1711年~15年)の頃になると剣術の稽古に大きな変革がもたらされます。それは、防具と竹刀の発明でした。

 それまでにも剣の技を磨き実践するための代替用具としての撓(しない)や部分的な補助防具などは一部の流派で利用されていましたが、本格的な面と小手を完成させ、竹刀による打ち込み稽古を流行させたのは直心影流の長沼四郎左衛門であったと言われています。

 その後、宝暦年間(1751年~64年)に入って、一刀流の中西忠蔵子武が鉄面や竹具足式の剣道具(防具)を用いた打込み稽古法を採用すると、この稽古法はまたたく間に多くの流派に普及し、やがて流派の壁を越えての他流試合も盛んになりました。

 江戸後期には、腰の強い四つ割りの竹刀や竹製の胴になめし革を張って漆で固めたものなど、現代の剣道具に近い用具も開発され、それまでの刃引き・木刀による形や組太刀中心の稽古から竹刀と防具による稽古・試合を採用した流派が次第に勢力を広げて行きました。

 また、防具と竹刀の採用は、一定の安全性を確保しながら剣の技術を学べる手段として、武士のみならず一般庶民の間にも剣術の門戸を広げることとなりました。これにより剣術の担い手が、それまでの一部の支配や軍事に関わる人間から、一般庶民へと拡大したことは近世の剣術の大きな技術革新であると言えるかもしれません。

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明治維新と廃刀令

 江戸時代の末期は、外国との接触が多くなり、それまでの政治体制や階級制度が崩れて、国内は乱れ、真剣をとっての斬り合いがあちこちで生ずるようになりました。

 太平の時代には武士としての精神面が重視され、防具と竹刀による打ち込み稽古でやや競技化されつつあった剣術は、再び実戦的な意味合いを帯びて稽古されるようになりました。

 しかし、明治維新(1868年)によって新政府が設置されると、明治2年の藩籍奉還、明治4年の廃藩置県により幕藩体制は解体となりました。また、明治3年には庶民の帯刀の禁止、明治9年に廃刀令が出されたことにより、武士の持つ特権はすべて失われました。

 江戸時代まで続いた封建制度の解体は、剣術の世界にも大きな打撃を与え、衰退の道をたどることになります。

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撃剣興業

 明治維新に伴う社会変動は、武士という特権的身分が剥奪されることで、あり失業を意味するものでした。

 そこで講武所の剣道師範であった榊原鍵吉は、貧苦に喘いでいた武術家を救済するために、相撲興行に倣った撃剣の興行化を願い出て、明治6年4月26日に東京府知事の許可を得て撃剣興業を開催しました。

 この撃剣興行は、珍しさもあって大盛況となり、一時期は関東から関西、そして九州まで広がっていくほどの人気を博しました。

 しかし、相撲の勝負に比べて一本一本の判定が素人には分かりにくく、さらには勝敗そのものの醍醐味よりも余興の部分の方が次第に肥大化していったことなどにより、またたく間に下火となってしまいました。

 客寄せのために色々な曲使いが出るようになり、剣道の本質から全く離れたものになってしまったのもその一因だったようです。

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西南戦争と警視庁抜刀隊

 明治10年、反政府勢力の拠点と目されていた鹿児島において、私学校の生徒を中心に不平士族らが西郷隆盛を擁して兵を挙げ西南戦争が始まりました。

 この戦争は戊辰戦争以来の大きな内乱となり、はじめは勝敗の行方も予断を許さないほどでしたが、西郷軍が熊本鎮台の攻略に失敗してから戦局は政府軍に有利に傾き、約8カ月近くの歳月を経て反乱は鎮圧されました。

 この西南戦争において政府軍の最大の勝因は警視庁抜刀隊でした。この活躍によって警察剣道の必要性が改めて認識され、時の大警視(現在の警視総監)であった川路利良は撃剣論を著して警察における剣道の実施を要望しました。

 明治12年、警視局(後の警視庁)が剣道を採用すると三島通庸警視総監は一流の専門家を集めて警察署に配置して奨励に努め、地方の警察もこれに倣ったため剣道復興の機運が急速に高まり、一般社会においても次第に剣道が行われるようになりました。

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大日本武徳会

 日清戦争で勝利した歓喜も醒めやらない明治28年、剣術界にも統一の動きが生まれ、京都府収税庁鳥海弘毅の発案により渡辺千秋知事を中心に大日本武徳会が結成されました。

 そして平安遷都1100年を記念して平安神宮隣接地に武徳殿を建立し、記念事業として、この年11月に第1回武徳祭を開催しました。

 大日本武徳会は武徳祭を開催するほかに、武術家優遇措置や段位称号制の制定、大日本剣道形(現在の日本剣道形)の制定、諸剣道大会の主催、武道(術)専門学校の開校などの事業を行ない、後には武道の総括連盟としての役割を負うようになりました。

 また、ほぼ同時期に武士の思想の集大成とも言うべき『武士道』という書が英文で出版されたため、日本の剣道は世界にも広まるきっかけとなりました。

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武術教員養成所と学校剣道

 大日本武徳会は明治38年に京都市に武術教員養成所(後の武道専門学校/武専)を設けて指導者の養成にも力を入れました。

 さらに明治44年には中学校・師範学校で正課として採用されることとなり、それまで警察官や道場へ通う一部の人の剣道であったものが、身分や地域を越えて「学校」という組織を通して普及するようになり、第3期黄金時代とも言うべき剣道の隆盛に大きな役割を果たしました。

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大日本帝国剣道形

 大日本武徳会による剣術界の統合は、その後の剣道の在り方や武技にも大きな影響を与えました。

 当時はそれぞれの流派が独自に形を残しており、武徳会という総合団体の立場から形を教授する場合に不都合であったため、まずは武徳会として統一した剣道形を作る必要がありました。

 そこで明治39年に、渡辺昇、柴江運八郎(神道無念流)、三橋鑑一郎(武蔵流)らの範士が中心になって、上段、中段、下段(天地人)の3本から成る武徳会剣術形を制定しました。

 さらに明治44年に剣道が中学校に正課として採用されるようになると、武徳会はあらためて新しい形を東京高等師範学校と相談協議して作成することになり、剣道形調査委員会を設けて全国から25名の委員が選ばれ、この中から、根岸信五郎、辻真平、内藤高治、門奈正、高野佐三郎らを主査として選出し、これら5氏によって草案が作成され、大正元年に「大日本帝国剣道形」を制定しました。

 この大日本帝国剣道形は、そのまま現在の日本剣道形に受け継がれており、太刀の形7本、小太刀の形3本の計10本から成っています。

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昭和天覧試合

 昭和に入ると剣道はますます盛んになり、昭和4年の御大禮記念昭和天覧試合、昭和九年の皇太子殿下御誕生奉祝昭和天覧試合、昭和15年の皇紀2600年奉祝昭和天覧試合という3度の天覧試合が開催されました。

 これらは昭和初期、戦前までの剣道界における最大イベントとしてして位置づけられています。

 昭和天覧試合では剣道と柔道が行われ、出場者の資格に合わせて、老大家による特選試合、専門家でありかつ天覧試合出場にふさわしい者を選考した指定選士優勝試合、そして専門家以外で各府県のほか北海道、樺太、朝鮮、台湾、関東州等の代表である府県選士優勝試合に大別され、特選試合と指定・府県試合の準決勝以上の試合が天覧に供されました。

 これらの天覧試合以降は、全国各地で奉納的な試合が続々と行われ、剣道が一段と普及し高度な技術も一般化して行きました。

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第二次世界大戦と剣道

 昭和16年の第二次世界大戦が始まる頃から、日本の社会は次第に戦時体制化し、あらゆる活動が国民の士気高揚と戦闘力の増強に向けられるようになりました。

 民間団体であった武徳会も武道総合団体として国の外郭団体になり、政府の指図を仰がなければならなくなりました。

 個人の修養・修行であった剣道が国家の剣道として国家目的に利用されるようになり、やがて戦闘のための剣道として戦技化して行ったのです。

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敗戦と剣道禁止時代

 昭和20年、第二次世界大戦が日本の無条件降伏によって終了すると、連合軍司令部の命令により「武道は超国家思想と軍国主義の鼓舞に利用され、軍事訓練に利用された」という理由で、剣道は柔道・弓道・薙刀などの各種武道と共に学校教育から完全に排除され、防具や竹刀も焼却したり生徒に配布したりして、学校内に置かないようにさせられました。

 また、翌21年には大日本武徳会も解散させられ、昭和24年には警察剣道も禁止となり、これ以降4年間、剣道は全くできない状態となってしまいました。

 この時苦肉の策として生まれたのが「警棒術」だと言われています。これがのちの撓競技を考えるうえで大変参考にされました。

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戦後の撓(しない)競技

 学校での剣道は全面禁止、武徳会は解散、多くの道場は閉鎖されていた中にあって、それでも細々と剣道を続けていた人達が集まり出し、フェンシングや他のスポーツを参考としながら撓(しない)競技を考案しました。

 昭和25年2月5日、笹森順造氏を会長として全日本撓競技連盟が結成され、同年の愛知国体に合わせて第1回全日本撓競技大会が名古屋電鉄本社講堂で開催されました。

 翌昭和26年5月4日には、日比谷公会堂で第1回全国選抜しない競技優勝大会、11月25日には九段高校体育館で第2回全日本撓競技大会を開催して、新しいスポーツとしての剣道復活の道筋を拓かれ、昭和27年には、中学・高校・大学での格技教材として撓競技が採用されるに至り、学校剣道の復活にも灯をともしました。

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全日本剣道連盟

 昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は約7年に及ぶ占領から解放され、主権(独立)を回復しました。

 剣道関係者は講和条約締結後、各地で剣道連盟の再組織化を急いでいましたが、この努力が実り、同年10月14日、各剣道連盟が一本化して全日本剣道連盟が結成されました。

 連盟の結成にあたっては、剣道も今後はスポーツの一種目としてゆくことが確認され、それにふさわしい競技内容への改編が急がれました。

 こうした努力によって、昭和28年「他のスポーツ種目と同様な取扱のもとに指導されるもの」として、学校体育においても剣道の実施が認められ、昭和29年には撓競技連盟との合同化も果たしました。昭和30年3月23日には日本体育協会への加盟も正式に認められ、その年の秋に開催された第10回国民体育大会には、正式種目として参加できることとなりました。

 10年という歳月と多くの剣道愛好家の努力の結果、新しいスポーツとしての剣道がようやく認められ、現代剣道として定着したと言えるでしょう。

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剣道の普及と国際化

 現在の剣道は、学校体育の重要な一部分を構成するとともに、老若男女を問わず、庶民の間に拡がり、数百万人に及ぶ幅広い年齢層の愛好家が竹刀を持ち、ともに稽古に励んでいます。

 また、世界各地で剣道を愛好する外国人も増えており、日本から多数の指導者が海外に出かけて普及や指導にあたったり、また外国から大勢の剣士たちが日本を訪れて講習を受けたり、日本の道場に滞在して稽古を重ねたりしています。

 さらに昭和45年には国際剣道連盟(IKF)も結成され、毎年国際試合を開催して剣道の国際的な普及発展に努力しています。

 このように剣道が我が国のみならず諸外国にまで普及してきた現在、人種や歴史や風土の異なった民族に対して、日本の剣道をどのように理解してもらいどのように普及してゆけばよいのか現代剣道を修行する私たちに与えられた新たな課題と言えるかもしれません。

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まとめ

 我が国の剣道の歴史を紐解くことによって、古来から今日まで受け継がれ、今後私たちが学び、そして次代に伝えるべき剣道の在り方を再度見つめ直してみました。

 日本刀の繰法を工夫することから始まった剣道は、江戸期に入って武士としての人間形成を目指す活人剣へと昇華し、更にその修練法は本身の真剣を用いた稽古から、竹刀と防具による打ち込み稽古へと変化して行きました。
 したがって日本の歴史的背景を持った現代の剣道は、打ち込み稽古を通して活人剣へと至る道であると言うことができます。

 一方、個人の修養のためであるべき剣道が国家などの外部の目的のために利用され、戦闘の手段として用いられることの悲劇も、その歴史を通して学びました。

 現代において剣道を行う私たちは、竹刀による「打ち込み稽古」と武士としての生き方である「活人剣」の思想との関係を剣道の稽古を通して常に考え、自得する努力を怠ってはならないと思います。

 そして、その関係法則(剣の理法)を朝に夕に鍛錬して身につけ、自らの生き方に活かすことこそが剣道の本質に迫る最良の方法だと考えます。

 過去の歴史を築いてきた先人への感謝と反省の思いを持って、剣道が再び誤った道を歩まないよう気をつけながら、国際的に発展した剣道を今後さらに立派に育てて次代に引き継げるよう、私たちも努力して行きましょう。


日本剣道の歴史 英訳付き (剣道日本)


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