[2]剣道の礼法

剣道と礼儀

 礼儀は、私たちが人間として社会生活をしていくうえで、非常に大切なものの一つです。そのため、剣道でも「礼に始まって礼に終わる」と言われるように、礼儀をとても大切にしています。

 しかし、剣道における礼法は、最も基礎的なことである反面、これほど複雑で分かりにくいものもありません。道場での並び方や礼の仕方などは、ある道場で正しいと教わっていたことが、他の道場に行くと間違っていると言われてしまうこともしばしばです。

 各地から大勢の剣士が集まる合同稽古に参加したり、よその道場に出稽古に行った際など、礼法が違っていて戸惑ってしまった方も多いのではないでしょうか。

 礼法の考え方には様々なものがあり、何が正しく何が間違いとは一概には言い切れないものがあります。ですから基本的にはその道場のやり方や習慣に任せ、一人合点しないで、分からないときには素直に尋ねてみるというのが最もよい対処法だと思います。

 しかし、基本的なことを全く何にも知らないままに、ただただ「教えて下さい」と尋ねるのも恥ずかしいものでしょう。せめて「私は(私の道場)では、こういう考え方でこのような礼法をしていますが、こちらの道場ではどのようにすればよいのでしょうか」と尋ねられれば、ある程度の面目も保てるというものです。

 このようなことから、礼に対する考え方に、自分なりの基準を持っておくことは大切なのではないかと思います。

 というわけで、剣道の世界で比較的共通に行われている礼法とその考え方について研究してみました。各道場ごとの細かな礼法の違いになどに関しては、この考え方を基準に応用して行けば良いのではないかと思います。

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上座と下座の考え方

 現代剣道の世界では、原則として正面席に対して向かって右側を上座、左側を下座とする習慣があります。

 これは古代中国の「天子南面す」という考え方に因っているものと考えられます。

 つまり天子様のような地位のある方の御席は北の方角に南側を向いて据えられるのが基本とされ、その天子様の左手、すなわち向かって右側は日が昇る東となるため上座とされ、その反対側となる西は下座とする考え方です。

 この考え方は、おそらく天文の中心となる北極星を背にすることによって、天子様の後ろに世界の中心となる北極星が煌々と輝くというようなイメージによるものではないかと思います。

 日本も古来からこの思想を受けて、町割りや築城、神社仏閣などの建築に取り入れてきました。京都の町割りが、御所のあるところを上京区とし、この御所から南側を見て、順に中京区・下京区となり、更に左手の東側が左京区、右手の西側が右京区となっているのも、こうした理由によるものでしょう。

 私は高校時代に修学旅行で京都を訪れた際、手にした地図の右側に左京区があり左側に右京区があることに違和感を感じたのですが、この理由を知って納得できました。

 さて、昔からの建物は、この考えに則って建てられている場合が多いのですが、現代の建築物は様々な制約があって、必ずしもこの法則を適用できない場合もあるようです。

 しかしこの考え方を基本として応用してゆけば良いのではないかと思います。

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道場に入るとき

 まず、道場に入る際の玄関での靴の脱ぎ方からですが、右足から靴を脱いで玄関框に上がろうとすると、これは相手にとって上座側の足から入ろうとすることになりますので失礼に当たります。そこで、玄関では左足から靴を脱いで上がります。

 脱いだ靴を揃える際に、後ろ向きになって揃えようとする人がいますが、これは相手に尻を向けることになるので、やはり失礼になります。そこで相手にとって下座側になる、玄関に向かって左側に横向きにしゃがんで靴を揃えます。

 揃えた靴は、後から入ってくる目上の人のことを考慮して、出来るだけ下座側につま先を外に向けて置きます。

 玄関を出る際に、靴を履きますが、今度はつま先を外に向けた靴をそのまま履いたのでは相手にお尻を向けて履くことになります。

 そこでもう一度下座側にしゃがんで靴を横向きにし、今度は上座の側の足となる右足から先に履きます。

 道場への出入りの際も同じ考え方をします。

 道場へ入る際には、下座側となる左足から1歩入り、そこで道場の正面(上座)に向かって一礼をします。

 出るときには、道場の出口の手前で、道場の正面に一礼をし、目上の先生がまだ道場内におられる場合にはそこに向かっても礼をし、その後、出口を背にしてうしろ向きのまま右足から道場の外に出ます。

 一方、剣道の試合などで、試合場(コート)に入るときは、相手と対等です。この場合には必要以上にへりくだる必要はありません。ですから、今度は堂々と右足から入り、出るときは左足から出ます。

 このように、試合に赴くときと、そうでないときの礼法をきちんと使い分けるのが、昔の武士の心得だったように思います。

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座り方と立ち方

 日本の礼法では、左座右起と言って、座るときは左足から、立つときは右足からという習慣があります。

 現代では正座することが希なので、立っているのが普通の状態という感覚がありますが、昔の考え方では、正座は休めではなく「かしこまる」ことです。このため、あらたまった場では、正座が常の状態で、立っているのは失礼な状態であると考えられます。

 ですから、失礼な状態からそうでない常の状態に移行する場合には、下座側の足から行動を起こし、逆に立って退出する場合には、いち早く上座側の足から退出の行動を起こすという考えになります。

 また、上席を左側にして正座している場合には、下手側から座るため右座左起となることも覚えておくと良いでしょう。

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座礼

 「座礼」は、正座から始まります。

 正座は、左足をわずかに引き、片膝ずつ座り、座ったら両膝を20センチくらい(両手の拳が入る)開き、背筋を伸ばして下腹部に力を入れ、あごを引き、手は足の股部の上に置き、口は軽く奥歯をかむように閉じて、目は相手を正視します。

 座礼をするときは、両手をそのまま前に進め、八の字型について、その親指あたりに鼻が来るように静かに頭を下げます。

 剣道では、一般には両手を同時につきますが、より丁寧に礼をしようとすれば、相手にとって下座側となる左手からそっと出し、次いで右手をついて礼をするという方法になります。居合などでは、この方法を採用しているようです。

 ちなみに、居合の先生の中には、常に油断をしないように左・右と手をつくのだとおっしゃる先生もいますが、座例という一般的な礼の中で、油断をしないようにというのは、かえって相手に失礼な考え方ではないかと思います。

 ここは、相手に対して油断しないと言うより、逆に相手を敬って下座から手をつくと考える方が妥当ではないかと思います。

 ですから、剣道大会等の表彰式や昇段審査などで、目上の人から証書をいたただくときなども、左手・右手と差し出すのが礼儀となります。

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正座と黙想、そして静座

 剣道の稽古前後には、全員が並んで正座をし、「正座(姿勢を正して)」「黙想」と声をかけるのが一般的ですが、中には「黙想」の号令を用いずに、「静座」とのみ声をかける道場もあるようです。

 これは、剣道の基本理念が「無念無想」の境地を求めるものであることから、黙して想う「黙想」ではなく、儒教の「静座法」を取り入れているためと考えられます。

 静座法というのは、静かに正座して、呼吸を調整し、腹式呼吸で下腹部を緊張させ、横隔膜の活動をよくし、無念無想で心身の健康をはかる方法です。

 近年では、全剣連の指導も「静座法」を薦めていると聞きます。

 [参考]
   正座 : 礼儀正しくきちんとすわること。
   黙想 : 黙って考えにふけること。
   静座 : 心をしずめてすわること。

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立礼

 「立礼」は、自然体から左足を前方の右足に引きつけて立ち、竹刀を持った左手をゆったりと腰につけ、相手を注視し、上体を僅かに30度傾け、相手への敬意を示す動作です。

 首だけかくんと曲げたり、馬鹿ていねいに曲げすぎたりしないようにしましょう。

 にやにや笑っていたり、声を出したりしながら礼をするのはよくありません。あくまでも相手を尊重した態度が望ましいものです。

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提等、携刀、帯刀

 剣道において竹刀を左手に持って提げ刀したり正座の際に左側に置くのは、刀の扱い方からすると略式です。おそらく剣道では右手に面小手の防具を携帯せねばならなかったために、この略式の方法になったものと思われます。

 刀を提げ刀する場合には、必ず右手に持ちます。これは周囲に対して刀を抜く意思がないことを示している状態です。

 左手に持つ際には、携刀と言って、鍔に親指をかけ、腰にとります。剣道ではこれを帯刀と言っていますが、本当の帯刀は刀を帯に差した状態です。

 携刀は刀をいつでも抜ける状態ですから、敵でもない人の前で携刀姿勢をとることは非常な失礼に当たります。

 居合の大会などに行くと、開会式に携刀姿勢で参列したり、控室を携刀姿勢でウロウロしている人を時折見かけますが、これは気をつけた方がよいでしょう。

 正座の際には、刀は右側に置き、なおかつ抜きにくいように刃部を内側にして置くのが礼儀です。竹刀の場合は略式で左側に置きますが、刀に準じた礼法と考えると刃部となる方を内側に弦を外側に置くのが自然だと思います。

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道場に対する礼の意義

 現代剣道は、戦後GHQの監視の下で、建前上は「武道スポーツ」で復興を果たし、現在においても学校教育現場での指導が主流となっているため、そこに宗教色を持ち込むのはタブー視されているようです。

 本来ならば「神前に礼!」とするところを、「正面に礼!」や「道場に礼!」というのは、そうした中での苦肉の策と言えるかもしれません。

 私は、個人的には、「日本の神道」というのは、仏教やキリスト教など、他の宗教とは趣が違うものという思いを持っておりますが、日本の法律上では他の宗教と同列に見られますので、その特定の宗教概念である「神前」という言葉は使いにくいのでしょう。

 平成11年に国旗・国歌法が制定されて以降は、剣道の大会などの場合には会場の正面に国旗を掲げ、「国旗に礼!」とするようになってきています。

 さて、話は変わりますが。。。

 私がまだ若かった中高生の頃など、指導の先生が忙しくてお見えにならず、自分たち生徒だけで基本稽古や地稽古などをしていると、それなりに一生懸命やってはいても、何となく気分がだらけて締まりがない稽古になってしまったものでした。

 決して意識的にさぼろうとしてしているわけではないのですが、いつの間にか気が抜けた稽古になってしまっているのです。そして、そんなときに限ってケガをしたり重大な事故が起きたりするものなんですよね。

 また、最近になっても、居合の稽古のように、自宅で独り稽古をしているときなどは、やはり気分が今ひとつ乗らない感じを持ってしまいます。

 しかし、指導の先生がお見えになったり、居合の道場稽古などで同僚や先輩、あるいは先生などが自分の演武を見て下さっている時には、無意識のうちに気分が充実し、引き締まった稽古を行おうとします。

 更に、剣道の試合や昇段審査などになりますと、普段の稽古の3倍も5倍も疲れてしまうものですが、これらも審判や審査員に見られているという意識が、良い意味での緊張と意識の充実を与えてくれているのではないかと思います。

 実は、私自信も普段の稽古で、常に審査を受けているときのような張り詰めた緊張感を持って稽古していれば、もっともっと上手になれるのではないかと思うのですが、人間の心は弱いものですから、誰かに見られていないといつの間にか心に緩みが生じてしまいます。

 そこで、武蔵会の稽古会などでは、形稽古や基本稽古を指導する場合に、私は一緒に形を打ったり防具を着けて稽古したりせず、稽古の輪から外れて端から会員たちの稽古を見ているようにしています。

 私自身の稽古のことを考えると、私も会員たちと一緒に形を打ち、また面をつけて基本稽古で一緒に回る方が良いのですが、それですと私が見ることができるのは、そのときに私の相手をしてくれている人ひとりだけになってしまいます。

 ですから、あえて稽古に参加せず、第三者として外部から見ていることによって、稽古をしている会員たちに対して、常にどこからか私に見られているという緊張感を持たせますと、これが稽古そのものを引き締まったものにしますし、またその方がケガや事故も少ないように思います。

 ですから、指導者にとって「常にあなたの稽古を私はきちんと見ていますよ」という態度を見せることは非常に重要であると思いますが、一方で修業する側としては、常に指導者に見守られていないと気の入った稽古が出来ないようでは困りものです。

 たとえ、指導者が見ていなくても、誰かが常に自分を見ていてくれるという意識を持つことは大切です。

 その誰かとは、実は人ではないのです。

 それは、たとえば道場の床であったり、道場の壁であったり、あるいは道場の天井など。。。つまりあらゆるものに神が宿って、それが常に自分を見守っていてくれる。。。こういう思想が日本人にはあり、それが日本人にとっての神であり、その象徴が神殿や神棚ということなのではないでしょうか。

 ですから道場での剣道は、その本体としての「道(どう)」は剣道の修練そのものですが、その修練を常に見守り包み込んでいる道場というのは「器(き)」であると考えられます。

 そして、その「器」の象徴が、「神前」であろうが、「正面」であろうが、「国旗」であろうが、私としては、形而上の目的である「道」を求めるために形而下の「器」に礼を尽くすという気持ちさえ持っていれば、特にそこにこだわる必要はないと思っています。

 そして、更に考えを進めてゆくと、たとえ道場に宿る「神」が見ていなかったとしても、たった1人だけ、いついかなる場合も必ず自分を見ている人がいます。

 それが自分自身です。ですから、全ての神は自分自身の心の中にあるとも言えます。

 人の心の中には、常に誰かに見守られていないとすぐに迷いに陥ってしまう弱い心の自分と、それを常に見守っている自分がいます。自分自身の弱い心を自分自身の心が見守り、その見守る心に恥じないように自分自身の心を励まして行動する。これが人間本来の生き方ですね。

 こういう生き方をしていると、結局は自分自信が頼れるものは、自分自身を取り巻く環境である「器」ではなく、「道」を求めて行動する自分自身のみであるというところにたどり着きます。

 ですから、自分を取り巻く環境としての「器」、そこに宿る神仏には礼を尽くし敬い尊ぶけれども、「道」を求めて行動する際に頼りになるのは自分自身のみであるから、「器」に頼ったり、失敗の原因を「器」のせいにしたりしてはいけないということです。

 武蔵の云う「神仏は尊し、神仏に頼らず」というのは、そういう意味じゃないかと私は思っています。

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