私の剣道修行

正二刀 中学で初めて剣道を始め、その後いく度かのブランクを経ながらも、二天一流の二刀剣道に巡り会い、その魅力にとりつかれるまでの経緯です。

 お恥ずかしいばかりの経歴ではありますが、庵主による剣道二刀流紹介の序章と思ってお読み下さい。

悪ふざけ   — 剣道との出会い —

 中学校の入学式当日、体育館で新任の校長先生の講話中に、列の後ろで悪友4人と共にふざけ合っていたところ、即座に校長室に呼ばれて大目玉。

 一人づつ校長先生の汗くさい剣道の面をかぶせられ、竹刀でピシリと一喝!されました。そして、先生曰く、

「叩かれて悔しいか?。悔しければ、今度はオレの頭を叩かせてやる!」

生保内中剣道部 こうして、当時剣道五段だった新任の校長先生が、着任早々新たに創設した「剣道部」に、その第一期生として入部することが決まりました。

 「3年目には全県優勝!」

 これが、校長先生の口癖でしたが、不甲斐ない私たちは、結局ベスト8止まりで、恩師の夢を叶えることは出来ませんでした。

 しかしあれからウン十年・・・優秀な後輩たちの活躍で、母校はときおり全国大会の上位に名を連ねるほどに成長。。。 選手は当時の剣道部員の子息たちでした。

打たない剣道   — 上段の構え —

スキーバム 県内最大のスキー場まで車で約1時間...雪国秋田で、こんな恵まれた?環境に住んだ私は、社会人になって車の免許を取得するやいなや、スキーにのめり込んでしまいました。

 シーズン中の滑走日数は60日を超え、あげく1週間以上の休みを取って、北海道、上越、信州などのスキー場を巡り歩きました。

 気分はまさにスキーバム。(*^^)v

 SAJ(全日本スキー連盟)の公認指導員試験にも合格して、夢はデモ選の予選会出場へと膨らんだ頃、ゲレンデシュプルンク(ジャンプ種目)の練習中に右膝靱帯損傷。

 幸い完全断裂までには至らなかったものの、そのシーズンを棒に振り、気落ちしたまま、せめてリハビリと運動不足解消にと久しぶりに覗いた道場で、

「右足が駄目なら左足で踏み込め!」

と、上段を勧めてくれたのが、当時県警を退職して地方警察で剣道を教えていた教士七段の先生でした。

jodan でも、この先生、上段からの打ち方などは何一つ教えてくださらず、

「下ろすな!、打つな!、前に出ろ!」

と、とにかく打たれても突かれても、常に構えを崩さず一歩前に出ることばかりを指導されました。

 しかし不思議なものですね。やがて前に出るタイミングが飲み込めてくると、相手の打突を全て前に出てかわせるようになるんです。そうすると、相手の攻撃が全く怖くない。

 試合でこちらが全く一本も打っていないのに、相手が場外に出て反則を取られてしまったということがありました。

「打って勝つ」剣道から、「打たなくても勝つ」剣道へ。

「攻め」ということが、ほんの少しだけ分かりかけてきた時期でした。

ゆっくり大きく打つ   — 故奥山範士の教え —

 28才でなんとか五段を取得した私は、その3年後、スキー場近くの好ロケーションを泣く泣く?離れて秋田市に転任。

 そこで市内のはずれにあった「興陽館」道場を訪ねて入門しました。五段審査の際に審査員としていらっしゃった故奥山京助範士に「秋田市に来たら、いつでも興陽館を訪ねて来なさい」と声をかけていただいたのがきっかけでした。

面打ち 興陽館で奥山範士に教えていただいたことは「ゆっくりと大きな面を打つ」こと。

 腕力に任せてスピードのある素早い打ちをすると「そんな品のない打ち方をするな!」と叱られ、とにかく、ゆっくりと大きく面を打つように指導されました。

 打突スピードは速ければ速い程良い、特に上段からの打突は、目にも止まらぬ速さで打ち込まなければならない。と思いこんでいた私はとても戸惑いました。

 しかし、人間の動作というのは、素早ければ素早いほど、起こりが色となって現れ、さらに途中での変化が難しくなるのです。そのため初期動作を見切られてしまうと簡単に避けられてしまいます。逆にゆっくりとした大きな動作は、途中での変化がいかようにも可能です。

 どこを打つのか...ぎりぎりまでこちらの心の内を明かさず、相手の反応を見極めた上で、最後の最後にピシリと手の内を利かせて打つ。「のろはや」いわゆる序破急の打突を要求されました。

 ゆっくり大きな動作の最後に、手の内を利かせてピシリとした気剣体一致の打突を行うことは、とても難しいのですが、奥山先生の手の内の柔らかさは天下一品で、日本武道館で行われた八段範士優勝大会の準決勝戦で、東京代表の森島健男先生の竹刀を天井高く巻き上げた話はあまりにも有名です。

 「速い」ばかりが能ではない。「ゆっくりとした動作」の中に潜む「心のあや」を教えられ、剣道の奥深さを感じた時期でした。

ネットの交流   — ニフティ武道フォーラム —

 興陽館での修行が2年を過ぎ、ようやく六段審査の受審資格も得られるという矢先。ひょんなことから転職し、東京に引っ越すことになりました。

 以後7年余り...、剣道とは全く縁のない生活が続きました。

 やがて、上京時には、まだ0歳児だった息子が、ようやく剣道を始められる年齢に成長し、近所の道場に通わせることになりました。

パソコン この頃に巡り会ったのが、パソコン通信ニフティサーブの武道フォーラムです。

 最初は、息子の剣道指導に関する情報交換が主体でしたが、このフォーラムで大勢のネット剣士と交流するうちに、次第に自らの剣道熱も再燃し始め、とうとう8年ぶりに剣道再開を果たすことになり、一度はあきらめかけていた六段昇段の夢も叶えることが出来ました。

 ネット交流には、オフラインミーティングというのがあります。

 ご存じの方も多いでしょうが、インターネットやパソコン通信等で、普段は通信回線を介して交流している(オンラインミーティング)仲間同士が、通信回線を介さないで、直に会って交流しようというのが、オフラインミーティングです。略してオフ会などと称します。

 ニフティの武道フォーラムで交流する剣道の仲間同士で、このオフ会を開催しようという気運が盛り上がってきたのが、平成9年の春頃のことでした。

ニフティオフ会 折から同じようにオフ会の計画をしていた同フォーラムの合気道関係者の協力を得て、合同開催という形で、第1回の「剣道フォーラムオフ会」が開催されたのが、その年の5月のことでした。

 場所は、東京の日本橋浜町にある「中央区立総合スポーツセンター」の武道場でした。(以後、ここは私のメイン道場ともなりました)

オフ会懇親会 この日は、北からは、北海道札幌で家族五人全員が剣道を愛好しているという剣道一家のご主人と、南からは大阪の短大を卒業してこの春就職したばかりという若い女性まで、総勢16人が集まっての盛大な、そして和気藹々なオフ会となりました。

 そしてこのオフ会をきっかけに、その後3年の間に5回のオフ会が開催されました。場所も、日本橋ばかりではなく、青梅の体育館や有名な講談社の野間道場を借り切って行なったりしました。

 現在、親しくお付き合いさせていただいている剣道仲間の大半が、このネット交流によるオフ会を通じて知り合った方々ばかりです。

 そして、私がこのホームページを作る最大の動機となったのも、このネット交流の素晴らしさを、もっともっと大勢の方々に経験していただきたいという思いからでした。

驚異の剣道   — 二天一流 —

 ニフティ武道フォーラムのオフ会は、私にとって運命の出会いをもたらしてくれました。

 オフ会には、年齢・段位・経験等、様々な剣道経歴を持つ方が集まってきます。このような集まりで、どこの道場でも行なっているような通常の稽古会をしてもつまらないだろうということで、開催の度に、様々な趣向を凝らすようになりました。

batto ある時は同じ武道フォーラムの他の会議室、合気道会議室や棒術・杖術会議室等のメンバーと合同開催して他武道との交流を深め合ったり。

 またある時は抜刀道経験者の指導を得て真剣による巻藁切りに挑戦してみたり。

 更には普段なかなか指導を受ける機会の少ない上段技や突技を重点的に練習してみたり。

 あるいは、滑る床上でわざわざ靴下を履いての打ち込み稽古をやって足捌きの練習をしたり。etc... 

 様々な企画が為されました。

 そしてそんな企画の一つとして検討されたのが、通常ほとんどお目にかかることのない二刀剣道に挑戦してみようという「二刀剣道稽古会」の企画でした。

 実は、たまたま会議室メンバーのひとりが、二天一流17代師範の中村天信氏と知り合いだったため、この「二刀剣道稽古会」は平成11年7月のオフ会で実現しました。

対二刀 初めてお目にかかった中村師範は、とても小柄で、年齢も私より13才年下でした。

 しかし、師範の使う二刀は、私の想像を遙かに超えた素晴らしいものでした。

 対峙すると小柄な師範の身体がまるで大きな山のように感じ、私が繰り出すあらゆる攻めのことごとくが封じられ、まるで踊りを踊るような優雅な動作で完膚無きまでに打ち込まれてしまいます。

「古流の理法に裏付けされた本物の二刀流とはこういうものなのか!」

打たれる悔しさは、次第に感動へと変わってゆきました。

「この素晴らしい剣道を学んでみたい」

 この気持ちは、稽古会が終わる頃には、はっきりとした弟子入り志願の決意となっていました。

 二刀、そして中村師範という運命的な出会いに恵まれ、新たな目標を見いだし、自分の剣道の世界が大きく広がったときでした。

揺れる心が一つに   — 二刀の修行 —

二天一流兵道形 中村師範の二刀に感動し、自らも二刀の修行を始めた私でしたが、現実はそう甘くはありませんでした。

「あいつは何をとち狂ったのか?」

二刀の稽古を始めた私に対する大方の評価はこのようなものでした。

 これまで親切にいろいろと指導してくださっていた先生たちが、

「二刀は指導できない」
「二刀は邪道」

とおっしゃり、次第に疎遠になってゆきました。

 さらには、

「遊びで剣道やる奴とは稽古したくない」

などと言う先生まで現れました。

 これまで子供の頃から長い間築き上げてきた自分の剣道、そしてその剣道を取り巻く様々な環境が、ガラガラと音を立てて足下から崩れ去ってしまう。そんな言い知れない不安が私を襲いはじめました。

突き しかし、中村師範が与えてくれた素晴らしい感動と、究めようとすればするほど奥深い、その二刀の魅力は、私を簡単には解放してくれません。

 やがて私は、二刀の稽古相手を求めて、よその道場に出稽古に向かうようになりました。

 知らない道場では、二刀を珍しがって大勢の人が喜んで稽古相手になってくれます。

 時には、

「なに?、二刀だと、生意気な!」

とばかりに突きまくられ、あわや取っ組み合いになりかけた稽古もありましたが、それはそれで、私にとっては真剣な稽古相手になりました。

 こうして毎回毎回、まるで道場破りのような心境であちこちの道場におもむく日々が続きました。

 この頃、私は出稽古に行くたび、二刀用の竹刀と一緒に、いつも一刀用の三九竹刀を携えていました。

「きっと、あいつは一刀がへたくそだから二刀をやっているんだろう」

出稽古先でのそういう批判をかわすために、

「オレは一刀でも十分やれるんだゾ!」

ということを見せてやる心づもりでした。

 しかし、更に心の奥底には、もしも二刀が通用しなかったら、その時には一刀で...という気持ちがあったことは否めません。

合同稽古会 そうしたある日、日本武道館で毎月開催される全日本剣道連盟の合同稽古会に二刀で参加してみようと思い立ちました。

 全剣連を代表される八段・九段の先生方が総勢40~50人も基立ちに立たれ、七段以下が下から懸かって行くという稽古会です。

 当日、会場に着いた私は、車のトランクから防具と二刀用の竹刀を取りだし、何気なく三九竹刀の入った竹刀袋に手をかけたときに、ふと考えました。

「オレは何をやってるんだ?」
「二刀で合同稽古会に参加するためにここに来たのに、まだ一刀の竹刀に未練があるのか?」
「二刀が通じなければ、また一刀で稽古するつもりなのか?」

 さんざん思い悩んだあげく、

「もし、今日ここで自分の二刀が全く通用しなかったら、金輪際二刀の稽古は止めよう」

そう決心し、手にかけた竹刀袋をそのままにトランクを閉め、会場に向かいました。

 一刀と二刀で揺れていた自分の心が一つになり、迷いが吹っ切れた瞬間でした。

「二刀がんばれ!応援するよ」

そう言ってくれる人が、次第に増えてきたのもこの頃からでした。

二刀を一刀に遣う   — 二刀で七段審査にのぞむ —

 武蔵会の二刀に出会ったときには全剣連の六段だった私も、やがて七段審査を受審出来る時期になりました。

 二刀の稽古を始めた当初は、ただただ中村師範の二刀に感動し、昇段審査のことなど眼中になかったものですが、いざ審査の時期が迫って来ると、

「このまま二刀で受けるべきか、やはり審査は一刀で受けるべきか」

と悩み始めました。

形稽古

 しかし、すでに自らが二刀を執るばかりでなく、「武蔵会」の中心にあって後輩の会員たちを指導する立場にもなっている私が、今更審査を一刀で受けてしまっては、会員たちの眼に、それは「逃げ」と映ってしまうかもしれません。

 正直に言って、

「二刀での昇段は不可能に近いくらい難しいのではないか?」

という思いはありましたが、これまで「二刀を一刀に遣う」という武蔵会独自の理念を掲げ、

「二刀も一刀も理合は同じなんだ」

と主張してきた私の持論も、

「審査に受かるために、二刀ではなく一刀で受けた」

と言われてしまっては、面目も反論のしようもなくなります。

 たとえ永久に合格出来なくとも、二刀で昇段審査を受けるという姿勢を貫き通すことが、自分を自分たらしめることだと決心しました。

 こうして、七段審査に二刀での挑戦を決意しましたが、周囲のほとんどの先生方は、こうおっしゃいました。

「お前の意気込みは買うが、現実問題として二刀での昇段審査は無理だろう」

 この言葉どおり、その年11月の東京審査で落ち、翌年5月の名古屋審査でも落ちました。

 私としてはなぜ落とされるのか分かりません。ほぼ100%完璧に打ち、相手の打ちは全て封じて身体に触らせもしませんでした。それでも受かりませんでした。

 これは、

「きっと二刀だから、最初からイジワルされている」

としか考えようがなくなってしまいます。

 更に拍車をかけるように、

「高段者の審査というのは打った打たれたではなく、中段における剣先の攻め合いを見ているのだ。上段や二刀のように最初から剣先を合わせようとしない構えは審査員も審査のしようがない。だから二刀を持って出てきた時点で、すでに審査員は×をつけている」

などと物知り顔に教えてくれる人までいました。

「どうせ受からないのなら、この次の審査からは「武蔵会」の二刀の技を徹底的に見せてやろう。上段からの大刀での突き、小刀での面打ち、飛び込み胴など、審査員が目を丸くするような技を見せてやれ」

todasensei 審査に対する情熱がやや薄れ、少しばかりやる気を失ったとき、ある稽古会で戸田忠男先生にお会いしました。ご存知のとおり、戸田先生は、かつて上段で全日本を制し、八段審査に二刀で合格された先生です。

 過去2回の審査会の折、戸田先生は別会場の審査員として、私の立合の様子を端から少しだけでしたが見ていて下さったそうです。その戸田先生がおっしゃいました。

「構えはよい。あとは、おまえの二刀に審査員が何を求め何を見ようとしているのか考えてみろ。一刀の理合で見ている審査員に二刀の我を通すのではなく、二刀で一刀の理合を表現してやればよいのだ。」

 この言葉で、私はようやく私自身の勘違いに気がつきました。

 これまで「二刀と一刀は同じだ」と主張しながらも、私の中では無意識のうちに二刀と一刀を区別していて、

「審査員は私の二刀を理解してくれない。それは二刀の理合を知らないからだ。二刀の理合を知らない審査員では、私を合格させることはないだろう」

と考えてしまっていたのです。

 しかし、二刀と一刀が同じならば、一刀の理合を二刀で表現出来ないはずはないのです。

 武蔵会の二刀の理合は一刀と同じなのではなく、一刀を包含する。。。そう考えたときに突然目の前が開け、やるべきことが見えてきました。

 その後、3度目の挑戦となる8月の審査に向けて、私は二刀ではなく一刀で高段の先生方に懸かる稽古をしました。

 一刀中段での攻めと打突のリズム・タイミングを身体に覚え込ませるべく、返されても押さえられても、遠間から1歩攻めて面を打つという稽古を続けました。

 周囲では、審査間近になっても二刀ではなく一刀で稽古している私を見て、

「二刀での受審はあきらめて、一刀で受けることにしたのだろう。」

と思った人も多かったようです。

 そして、審査当日。。。

 一人目の立合で、小刀で中心を取りつつ、小刀の剣先が相手の剣先に触れるくらいまで攻め込むと、一瞬相手の視線が小刀に引きつけられるのを感じました。

 今までの私ならここで打っています。と言うよりも、これが二刀の理合です。小刀の攻めと大刀の打突がほぼ同時、相手の意識が小刀の攻めに反応した瞬間が大刀での打突の好機なのです。

 ところがこの打突を外から見ていると、相手が何もしていないのに、こちらが一方的に打っているように見えてしまいます。いわゆる攻めのない打突。

 つまり相手の心が全く動じていないのに竹刀を2本持っているという物理的な優位性だけに頼って打っているというように見えてしまいます。

 戸田先生がご指摘下さったのは、まさにここの部分でした。

 竹刀を1本しか持たない一刀では、物理的に「攻め」と「打突」を同時に行うことは出来ません。そのため一刀では、攻めて、相手の反応を誘って、そこを打ちます。

 この相手の反応を誘うという「間」、すなわち「ため」が、一刀には必要であり、二刀でもそこを表現出来ないといけないと思いました。

 そこで、相手の視線が小刀に引きつけられたのを感じながらも、あえて打たずにぐっと堪え、相手の意識が小刀から再び大刀に戻り、更にそこから打突動作に移ろうとするその刹那を捉えて打ち込みました。

          ・・・・・・・・・・・・・・・

  やがて合格発表に自分の受審番号を見たときには、うれしさとともに自分がやってきたことの方向性に間違いがなかったことに確かな自信を持ちました。

「二刀を一刀に遣う」

 二天一流「武蔵会」の二刀の理法を、頭の中の理論だけではなく、自らの身体を持って体得し体現することが出来た瞬間でした。

 今後、この経験を更に練り上げていって、後に続く二刀の仲間たちに伝えるとともに、一刀にもフィードバックして、一刀にも通じる真の二刀、本格の二刀として発展させて行ければ良いなと思っています。


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