[1]剣道とは何か?

武道かスポーツか?

 一般に、
 「テニスとは、どんなものですか?。」
と尋ねられれば、
 「およそ縦24メートル横11メートルのコート中央に張られたネットを挟んで、ラケットという用具で交互にボールを打ち合う競技です。」
と答えても、ほぼ間違いではないでしょう。

 では、
 「剣道とは、どんなものですか?。」
と問われて、
 「一辺が9メートルないし11メートルのコートの中で、剣道具を着用して竹刀という用具で相互の身体を打突し合う競技です。」
と答えますか。

 多くの剣道家は、剣道というものが、他の運動競技のように試合における打突ポイントを競い合うだけの単なるゲームスポーツではないと、漠然とではあっても自覚していると思います。

 全日本剣道連盟(以後、「全剣連」と称します)のホームページには、

 剣道は
     剣道具を着用し竹刀を用いて、
          一対一で打突しあう
              運動競技種目 とみられますが、
     稽古を続けることによって、
          心身を鍛練し
              人間形成 を目指す
    「武道」です。

と書かれています。

 すなわち全剣連では「剣道は(単なる運動競技種目ではなく)『武道』である」と明確に定義しているのです。ですから、少なくとも全剣連に所属して剣道を学んでいる剣道家であるならば、剣道を「武道」と位置付けて修錬しなければならないもののはずです。

 ところが、最近の若い剣道家たちに、
 「剣道はスポーツですか?、それとも武道だと思いますか?。」
と問いかけると、その答えは思いのほか、まちまちのようです。

 「もともとの剣術は武道だが、剣道はそれから発展したスポーツです。」
という答えがある一方で、
 「現代の剣道は、スポーツの要素を持った武道だと思う。」
という意見もありました。

 また、
 「真剣より長くて軽い竹刀を用いた現代剣道の技術は、日本刀を用いた実戦では通用しないから、今の剣道は竹刀スポーツだ。」
とか、
 「武道は勝つためには何でもありの闘争の手段であるが、現代剣道はルールに従って正々堂々と行うスポーツとしてやるべきだ。」
などとという、ちょっと考えさせられるような意見がありました。

 更には、
 「当人がスポーツだと思ってやればスポーツになるし、武道だと思ってやれば武道になる。」
という、なかなか意味深な答えをした人もいました。

 全剣連が「剣道は武道である」と明確に定義しているにもかかわらず、若い剣道家の間では、剣道が思ったほど武道として認識されていないのはなぜなのでしょうか。

 これは、おそらく若い人たちが「武道」ということの意味をよく理解していない上に、「武道としての剣道」がどういうものであるのかを正しく教えられていないため、スポーツと武道の違いがよく分からないのだと思います。

 そのため、剣道に関する昔からの教えに対しても、それを現代的なスポーツの感覚で理解しようとして、その教えに少なからぬ矛盾や疑問を感じてしまうことも多いようです。しかもそれをきちんと解決せぬままに、剣道の試合競技における技術面の練習ばかりに没頭してしまい、結果的に武道としての剣道が本来向かうべき方向性との間にズレを生じてしまっているように思います。

 そこで、現代において剣道を学ぶ私たちは、まずは「剣道は武道である」という認識を持った上で、武道とスポーツとの違いやその特性を浮かび上がらせ、そこから武道としての剣道の学び方や修錬の方法をそれぞれが探ってゆくという作業が必要になるのではないでしょうか。

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不思議な光景

 中高生が父親以上の年齢差のある先生に、彼らの持つ運動能力をフルに発揮して懸かって行っても、ほとんど打ち込むことが出来ずにいいようにあしらわれてしまう。こんな光景を剣道の世界ではよく見かけます。

 インターハイレベルの高校生、もっと極端な話をすれば、学生チャンピオンや全日本レベルの若手選手ですら、稽古では子供扱いにしてしまう高齢の高段者が大勢いらっしゃいます。

 他の一般スポーツでは考えられないことです。それゆえ、剣道を良く知らない人の目には、誠にうさん臭く、まるで剣道における序列制度を垣間見るような稽古風景とさえ見えてしまうようです。しかし、剣道を少しでもかじったことのある人ならば、この実力差が真実であることが分かるはずです。

 20代~30代の若手選手が、2回りも年上の先生に敵わない。その理由はいったい何なのでしょうか。

武道の力―人間は80歳まで強くなれる!

 宮本武蔵は、その著書「五輪書」に次のようなことを書いています。

「私は若い頃、60回余りの勝負を行って一度も負けなかった。しかし30歳を過ぎて振り返ってみると、これは私が兵法を極めたからではない。おそらく偶然にも剣の扱い方が天の理に適っていたからか、または相手の兵法が未熟だったからであろう。このことに気がつき、その後なお深い道理を得ようと朝に夕に鍛錬してみると、ようやく兵法の道に合致したのは50歳の頃だった。さらにこの兵法の理を活かして諸芸諸能を学べば、すべてにおいて私に師は必要なかった。」

 つまり、「兵法の道は、若い頃の命をかけた幾度もの真剣勝負の勝利ではなく、もっと先の方にあった。そして、その理法は全ての道に通じるものであった。」と言っているわけです。

 武蔵が30歳で真剣勝負を捨て、その後50歳になってようやく極めたという兵法の道、そして諸芸諸能に通じるその理法というのはどんなものだったのでしょう。


五輪書 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ5)


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剣道に関する疑問

 剣道には、技術上の疑問もいくつかあります。特に子供たちの指導に携わっている人ならば、これまで自分自身の剣道修錬上ではたいして疑問とは思っていなかったような事柄が、子供たちの口から、ちょっと答えに窮してしまうほどの大きなそして素朴な疑問として、あらためて目の前に突きつけられてしまったというような経験がありませんか。

 たとえば、
 「打った後に、わざわざ相手の後ろまで駆け抜けるのはなぜ?、当たったらそれでいいんじゃないの?」
 「面を打つときメンと声を出さなければけないのはなぜ?、コテと言って、面を打ったらいけないの?」
 「左の小手や左の胴はなぜ一本にならないの?、右でも左でも同じでしょ?」

 指導している子供たちや父兄たちから、このような質問があったとき、その理由を分かりやすくきちんと説明できますか。

 また、ときおり剣道界の外から寄せられる、
 「本来なら鎧兜(よろいかぶと)で守られている面や小手や胴を打つ剣道は実戦からかけ離れているのではないか。」
 「剣道の面打ちのやり方では日本刀で実際に物を切ることができないのではないか。」
というような批判に対しても、きっぱりと反論ができるでしょうか。

 更に、
 「左足のひかがみ(膝の裏)を伸ばせと遅わったが、伸ばしたままだと踏み込めないのではないか。」

 「雑巾を絞るように手首を絞れと教わったが、そのように絞ったら刃筋が狂いやすいのではないか。」

などという初歩的な悩みに対して、正しい指導ができますか。

 剣道の指導は、その方向性を誤るととんでもないところに行ってしまう可能性があります。方向を見誤らないためには、まずは指導者が「剣道とは何なのか」という、剣道の本質を正しく理解しておく必要があります。そしてこれを子供たちにきちんと教えてやらなければ、子供たちはいくら稽古を積んでも正しい剣道を身につけることができません。

 近年、剣道界では残念な事件や事故が頻発していますが、これは最近の若い剣道家や指導者たちが剣道の本質を知らず、その方向性を見誤っているからかもしれません。

 剣道人口の減少が深刻に叫ばれる中、今こそ私たちはあらためて正しい剣道の普及について考える必要があると思います。それは、単に剣道の大会数を増やしたり、オリンピック化をして剣道競技を世界に広めることばかりではなく、子供たちの指導に直接携わる若い剣道家や中堅の指導者たちが、今一度「剣道の本質」を考え、そして見つめ直し、剣道の一番大切なこと、すなわち、

  ・剣道というのは、何を修練し、何を学ぶものなのか。
  ・剣道を学べば、何が身に付くのか。
  ・剣道は、それを通して何を次世代の子供たちに伝えて行けばよいのか。

こういうことを、それぞれがしっかりと自分の頭で考えて行かなければならないのではないかと思います。


初心者のための剣道講座 陥りやすい癖とその矯正法 (剣道日本)

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剣道の理念

 全剣道は、昭和50年に「剣道の理念」と題して、

  剣道とは、
  剣の理法の修練による
  人間形成の道である

という内容を発表し、同時に「剣道修錬の心構え」として、

  剣道を正しく真剣に学び
  心身を錬磨して 旺盛なる気力を養い
  剣道の特性を通じて
  礼節をとうとび 信義を重んじ
  誠を尽くして 常に自己の修養に努め
  以って 国家社会を愛して
  広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである。

と述べています。

 これは、現代における剣道の位置づけと、剣道家として学ぶべき手段と目的を非常に簡潔に表現しており、おそらくこの文章を額に入れて掲げたり、稽古の前後に子供たちに大きな声で斉唱させたりして教えている道場も多いことでしょう。

 しかし、具体的に「剣の理法」とは何を意味するのか、そして、これを「修練する」というのはどういうことなのか。

 こうしたことを子供たちや剣道の初心者にも分かりやすく教えてくれる道場は意外と少ないのではないかと思います。

 実は、長年剣道をしている私であっても、「剣の理法ってなに?」と問われると、一瞬言葉に詰まってしまいます。
まして「あなたが修練しているそれは剣の理法ですか?」と問い詰められると、ますます自信を持てなくなってしまいます。

 きっと私に限らず、多くの剣道家も「剣の理法」が何なのかということをあまり深く考えないままに、剣道の試合に勝つことや昇段審査に合格することのみを目標にして、剣道の技術的な向上を目指した稽古、すなわち「剣の理法」ではなく「剣の技法」の修練にのみ終始してしまっている場合が少なくないのではないでしょうか。

 そこで、まずは初心に立ち返り、全剣連の「剣道の理念」に基づいて、「剣の理法」とは何なのかを調べ、それが剣道の打突技術とどのように関連しているのか、さらにこの理法を修練することによって、それがどのように人間形成に結びついて行くのかについて考察してみたいと思います。

 そして、そこから現代における剣道の学び方と剣道上達の秘訣を探って行くことにしましょう。


少年のための剣道 基本編―幼少年剣道指導の手引き


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剣道の手段と目的

 では、全剣連が発表した「剣道の理念」の内容について、これをもう少し分かりやすく整理してみましょう。

「剣道の理念」では、
 1、剣道は、「剣の理法」を「修練」する。
 2、剣道は、「人間形成の道」である。
という2本の柱が示されています。前者は「手段」であり、後者は「目的」です。

 一方、全剣連のウェブサイトを開いてみますと、「剣道に関する全剣連の見解」というページの中に、

  剣道とは、
    日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ、
    剣の理法を自得するために歩む道を指し、
  剣道を学ぶということは、
    この剣の理法を学ぶことを意味します。
  敢えて言えば、
    剣の理法の奥にある武士の精神を学ぶことが重要で、
    剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、
      その為の一つの手段と見られています。
  これが剣道の目的が『人間形成の道』と言われている理由です。

という記述が見られます。

 すなわち全剣連では、「剣道の理念」で述べられているところの「剣道の手段」として、私たちが修練すべき「剣の理法」というのは、「日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ」て、「自得」してきたものであるとし、同時に、その自得のために歩む道こそが「剣道」そのものであると述べているのです。

 さらに、現代に生きる私たちが剣道を通じて学ぶのは、この剣の理法の奥にある「武士の精神」であり、これを学ぶことが、すなわち剣道の目的としての「人間形成の道」であると言っています。

 一方、「剣の繰法」を厳しい「稽古」を通じて学ぶことは、このための「手段の一つ」がであるとも言っています。

 そこで、これらをまとめてみますと

 1、剣道を学ぶ手段として、
   ○剣の繰法は、厳しく稽古するものである。
   ○修練するのは、剣の理法である。
   ○剣の理法は、武士が戦いを通じて自得するものである。

 2、剣道を学ぶ目的として
   ○ 学ぶべきものは、剣の理法の奥にある武士の精神である。
   ○ 学び得た武士の精神をもって、人間形成の道を歩むことが、
    剣道の目的である。

ということになります。

 このようなことは、何もあらためて整理するまでもなく、当たり前のことだと思われた方も少なくないかもしれません。

 しかし、一度よく考えてみて下さい。

 ・私たちは、「剣の繰法」を「修練」してはいませんか?。
 ・そして、「剣の繰法の修練」が「剣道の目的」になってはいませんか?

 もう一度整理しますと、

 ・「剣の繰法」は「修練」ではなく「稽古」するものです。
 ・そして、「修練」するのは「剣の繰法」ではなく、「剣の理法」です。
 ・さらに、「剣道の目的」は、剣の理法の奥にある「武士の精神」を学んで
                 「人間形成の道」を歩むことです。

 ここのところをきちんと理解していないと、剣道の方向性が違ってきてしまいます。

 もしも、この最も大切なことを誤解したままの人が、将来子どもたちの指導に携わってしまえば、日本の剣道はどんどん違った方向に向かってしまいます。

 ですから、このことを最初に正しく理解しておくことが、剣道家として、将来子どもたちの指導にあたる立場になる者の責務であると考えます。


少年のための剣道 応用編―幼少年剣道指導の手引き


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剣の繰法を稽古するということ

 剣道の一つの手段として「剣の繰法を稽古する」というのはどういうことなのでしょうか。このことについて詳しく考えてみましょう。

 前述した全剣連のウェブサイトには「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶ」と書かれています。そしてこの解説の前段には「日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じ」とあります。このことから、ここで言う「剣の繰法」とは、すなわち「日本刀の繰法」のことであると理解できます。

 一方、「稽古」という言葉は「古(いにしえ)を稽(かんが)える」と書きます。

 南北朝時代に北畠親房が著した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」には、「稽古」について、「古今の理(ことわり)なり。これをよくわきまへしるを稽古といふ」とあります。

 つまり古事を考えて、物事のかつてあったあり方と、これからあるべき姿のすじ道を正確に知るということが「稽古」という意味です。

 したがって、「剣の繰法を稽古する」ということは、「日本の武士が日本刀を使った戦いを通じて編み出した剣の操作方法のことをよく考えて、その日本刀を用いたかつての技のあり方と、そこから現代の私たちが学び取るべき技のすじ道(道理)を正確に知る」ということであると言えます。

 一般のスポーツ競技では、一定のルールに基づく「試合」に勝つために、そのルールの範囲内で新しい技を開発することは大いに推奨されます。試合の内容が高度になればなるほど新しい技が編み出され、その技によって試合は更に高度化します。こうしてスポーツの技と内容はますます発展してゆきます。

 ところが剣道では、剣道の試合のルールの中で新しい技を開発することは、剣道の本筋から外れます。

 むろん、往時には、当時の武士たちが命をかけた真剣の戦いの中から、その都度様々な新しい剣の技を編み出し、それによって日本の剣法は発展を遂げてきました。

 しかし真剣で人を斬ることが現実のものとしてあり得ない現代にあっては、新たな剣の技を真剣を用いた戦いを通じて編み出すことは不可能です。

 仮に竹刀を用いた現行の剣道試合で通用する新しい技を開発したとしても、それは剣道が求めている「日本の武士が剣(日本刀)を使った戦いを通じて開発された剣の繰法」にはならないのです。

 そのため「剣の繰法」は、私たちが竹刀を用いて新たにつくり出すのではなく、昔の武士が命がけで開発したものを、古(いにしえ)を稽(かんが)える「稽古」によって学ばなければなりません。

 以前に、中学生の指導に携わっている若い教師とお話をした折、彼は、

「今の剣道界は、練習方法にしても剣道の技にしても、古いやり方ばかりを押しつけて子供たちの自由闊達な創造性を押さえつけている。もっと若い人たちの新しい考えを取り入れてゆかなければ、日本の剣道は発展しないだろう。」

というような趣旨のことを言っていました。

 彼の教育者として子供たちの可能性を引き出してやろうという気持ちは分からないわけではありませんが、こと剣道の指導ということに関しては、その最も基本的なことである「剣(日本刀)の繰法」は、あくまで「稽古」するものであるということを十分に理解していないと言わざるを得ないでしょう。


剣道 伝統の技術


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修練するのは剣の理法である

 このように、「剣の繰法」は「稽古」するものですが、「剣の理法」は「修練」すべきものとされています。

 「修練」というのは、読んで字のごとく「練って修める」ことです。「練る」というのは、練り歩くともいうように、あっちへ行きこっちへ戻りなどする様子で、ものを何度もこねまぜたり伸ばしたり固めたりしながら、しだいに使えるもの質の良いものにしてゆくという意味があります。

 そして、「おさめる」というのは、「受け取って自分のものとして整え正す」いう意味を持ち「学問、技芸などを身につける」ことを言います。

 ですから、「修練」というのは、「学問や技芸などを、何度も繰り返し経験を積んでより良いものにしながら身につけてゆく」ということです。

 したがって、現代剣道において竹刀を用いて行う「剣道の修練」というのは、このような「修練」のことを言っているわけです。

 しかし、ここで誤解してならないことは、「修練」するのは「剣の繰法」ではなく「剣の理法」であることです。

 「剣の繰法」すなわち「日本刀の繰法」を学ぶためならば、わざわざ日本刀とは形状の異なる丸い竹刀を用いて打ち合うよりも、日本刀そのものを用いて「稽古」をする方が効果的です。

 安全性や耐久性、廉価性などを考慮して、真剣ではなく刃引きや模擬刀を用いたり、更に真剣を模した木刀を用いたりすることはあっても、「剣の繰法の稽古」の基盤には「日本刀」がなければなりません。

 ですから、竹刀というのは「剣の繰法」を稽古するためのものではなく「剣の理法」を修練するために開発されたものであることを理解する必要があると思います。

 余談ですが、剣道は本来日本刀を扱う武技なのだからと言って、次のようなことをおっしゃる先生がいらっしゃいます。

  「面は、相手の股下まで切り裂くように打て」
  「小手は、相手の腕を切り落とすように打て」
  「胴は、相手の体を斜めに真っ二つにするように打て」
  「突きは、相手の喉元に鍔がつくぐらいまで突き抜くように突け」

 このような先生から教わった人の剣道は、とても人間形成に繋がるとは思えない、力任せの乱暴な剣となってしまいます。

 防具を着けているとはいえ相手は生身の人間です。それを必要以上に強く叩くことが剣道の修練だと言うならば、現代において剣道人口が少なくなるのも無理からぬことでしょう。

 「剣の繰法」を稽古するのに竹刀を用いて相手を叩く必要はありません。「剣の繰法」を稽古するためには、昔から日本刀や木刀を用いて行う「形稽古」や「組太刀稽古」というものがあります。

 そのため全剣連には刃引きや木刀で稽古する「日本剣道形」があり、最近では「木刀による剣道基本技稽古法」もつくりました。さらに居合道を連盟の傘下に入れて、剣道家も稽古できる「全剣連制定居合」というものもつくっています。

 ですから私たち剣道家は、「剣の繰法」を正しく学ぶために、少なくとも「日本剣道形」や「木刀による剣道基本技稽古法」などの稽古をしなければならず、その上で、できれば真剣を用いた居合道の稽古やさらには古流の剣術なども弊習した方が良いということも理解できると思います。

 もちろん、竹刀では「剣の繰法」を稽古することが全くできないと言っているのではありません。

 刃引き・木刀等での形や組太刀を十分に稽古した人であるならば、竹刀も日本刀のように扱えるでしょうし、真剣による高度な技前を竹刀で再現することも出来るでしょう。

 しかし、竹刀と防具の本来の使用目的は、あくまで「剣の理法」を「修練」するためのものであって、「剣の繰法」を「稽古」するためのものではないということを理解しなければならないと思います。


日本刀を超えて 「身体」と「竹刀」から考える剣道論

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剣の理法とは

 前項で、剣道において竹刀を用いて「修練」するのは、「剣の繰法」ではなく「剣の理法」であると述べました。では、この「剣の理法」とは、どういうものでしょうか。

 「理法」の「理(ことわり)」というのは「人の力では支配し動かすことのできない物事の当然のすじ道」という意味があり、「法」は「従い守るべきよりどころ」というような意味です。
\r\n ですから「剣の理法」いうのは、「剣を持って戦う上で、のっとるべき当然の道理」ということになります。

 そして、ここで大切なことは、この「理法」は「当然」すなわち、どう考えても必ずそうなるという当たり前の法則でなければならないということです。言い換えれば、当たり前でない「偶然」の結果は「理に適っていない」わけです。

 ですから、「剣」を扱う上で、「当然の結果を生み出す法則」こそが「剣の理法」であると言えます。

 たとえば、スポーツでは「フェイント」が高度な技として珍重されます。サッカーやバレーボールなどでは、相手の心理の裏をかき、意表をつく鮮やかなフェイント技はゲームの花形で、観客の喝采と感動を大いに誘います。

 しかし剣道におけるフェイント技はあまり評価されません。なぜなら、フェイントの成功というものは「偶然の結果」でしかないからです。どんなに素晴らしく高度なフェイント技も、相手に見破られてしまっては、その結果は「当然」のものになり得ません。「当然」でない技は「理に適っていない」、すなわち「理法」ではないのです。

 スポーツならば、一か八かのフェイント技が失敗しても、次にはそれを取り返すチャンスがありますし、ある意味、高度なフェイント技はそれが失敗することも想定に入れて仕掛けることもしばしばあるでしょう。

 しかし真剣を用いた戦いにあっては、技の失敗は即自分の死を意味します。つまりフェイントが失敗した時点でゲームエンドとなってしまうのです。ですからフェイント技で偶然の勝利を勝ち得たとしても、その技はいつ誰にでも通じる「理に適った剣の技」とはなり得ません。

 ですから偶然の技は戦いを通して淘汰され、このような技が次代に伝えられることはほとんどなかったのです。

 中高生の剣道の練習を見ていますと、基本的な切り返しや打ち込みをないがしろにし、「実戦練習」と称して、試合に勝つためのフェイント技ばかりを練習している場合が見受けられます。またフェイント技で高段者に打ち込んで、偶然に当たったのを実力と勘違いして喜んでいる若い剣士も多いように思います。

 これらは、やはり「剣の理法」を修練するということの意味を正しく理解していないケースと言えるのではないでしょうか。


実戦のための剣道講座 ここ一番に役立つ技八十九手 (剣道日本)


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剣の理法は自得する

 では偶然ではない法則、つまり真の「剣の理法(剣で戦う上での理に適った法則)」というのは、どういうものでしょうか。

 これは、先の全剣連の解説によりますと「日本の武士が剣(日本刀)を用いた戦いを通じて自得する」と説明されています。つまり「剣の理法」とは、剣を用いた実戦を通して自得しなければならないものなのです。

 しかし現代において、剣を用いた実戦などは現実のものとしてあり得ません。では現代の私たちにとって「剣の理法」を自得する手段はないのでしょうか。

 そこで全剣連の解説の後段をもう一度読みますと「剣の操法を厳しい稽古を通じて学ぶことは、その為の一つの手段と見られています」と書かれています。

 すなわち、かつての武士が実戦を通して自得した「剣の理法」は、やはり昔の武士が編み出した「剣の繰法」を厳しい「稽古」を通して学ぶことによって自得できると言っているのです。

 ここで大事なことは、「稽古」をするということです。

 先にも述べたように「稽古」とは「いにしえをかんがえる」ことです。つまり、剣道には昔から伝えられている「稽古法」というものがあり、この「稽古法」をないがしろにして勝手な練習をしていたのでは、剣の理法は自得できません。

 昔、次のようなお話しを聞いたことがありました。

 ある道場で、子供たちの指導をされていた老齢の先生が、日本剣道形を教える際に、子供たちに対して「一つの形の始めから終わりまで息継ぎをせずに一息で行うように」と要求したそうです。

 しかし子供たちの中にぜん息の病気を持った子供がおり、その子はどうしても息が続かずに途中で大きく肩を揺らして息継ぎをしてしまいます。

 先生はそれを見つけるとその子を厳しく叱り、罰として道場を一周走らせました。

 来る日も来る日も、剣道形の稽古のたびに道場を走らされるわが子の姿にいたたまれなくなったその子の親が、

「剣道形を一息でやるのは大人だって難しい。特に息子はぜん息なので一息でやるのは無理がある。むしろやむを得ず息継ぎする場合には、どこで息継ぎをすべきかを教えてやって欲しい。」

と訴えました。しかし先生は、

「剣道形は一息でやるもの」

と言うばかりで耳を貸しませんでした。

 親はなんと理不尽な教え方をする先生だろうと思ったそうです。

 ところがひと月ほどが過ぎた頃、その子はほとんど肩を動かさずに剣道形を打つようになりました。

 息継ぎをしないのではありません。先生に息継ぎを見つかって叱られないようにするために、肩を動かさずにお腹で静かに息を継ぐコツをその子なりに身につけたのです。

 つまり、相手に呼吸を悟られない腹式呼吸法を自得したわけです。

 おそらく、息継ぎをする箇所を事細かに教えたり、腹式呼吸の仕方を手取り足取り教えたとしても、その子はこの呼吸法を身につけることは出来なかったでしょう。

 一見理不尽と思えるような昔ながらの「稽古」の教えの中には、さらに深い真実の教えがあるという一例です。

 もちろん、やがてその子の喘息も治ったのは言うまでもありません。

 話を元に戻しましょう。

 「剣の理法」は、このように昔から伝わる教えに従って厳しく「稽古」することによって自得の道が開けてきます。

 しかし、なぜ「自得」なのでしょうか。誰かが「剣の理法はこうですよ」と分かりやすく教えてくれることはできないのでしょうか。

 実は、この「剣の理法」というものは、昔の武士がそれぞれの戦いを通して自らのものとした「理法」です。つまり「剣の理法」というものは、ある程度の共通性はあったとしても、万民にとっての普遍的な「理法」」ではなく、その武士それぞれの体格や能力、性格、経験など、様々な要素をもとに自得した固有の「理法」でもあるわけです。

 ですから、現代でこの「理法」を学ぶ私たちも、最終的には自らの「剣の理法」は自らの手によって「自得」するしかない訳です。

 このため、「剣の理法」は、単に学ぶのではなく「修練」しなければならないのです。「修練」というのは、先にも述べたように「様々な手段によって学んだことを、何度も何度も錬って経験を積み、さらに使えるもの、より質の高いものへと変化させつつ身につけて行くこと」です。

 そして、この「修練」によって、自分にとっての固有の「剣の理法」を自得して行く道こそが、剣道そのものであり、それゆえ剣道は「百錬自得の道」とも言われるのです。


剣道秘要 (武道名著復刻シリーズ (2))


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百錬自得ということ

 剣道は「百錬自得の道」であると述べました。この言葉は、道場に掲げられた額や面手ぬぐいに染め抜かれた揮毫などで目にする機会も多く、剣道家にとってはなじみの深い言葉だと思います。

 しかし、最近はこの言葉だけが一人歩きしてしまい、何もかもが「百錬自得」の言葉の陰に隠されてしまっているようなところはないでしょうか。

 前項で述べたとおり、剣道において「百錬」して「自得」すべきものは、私たち剣道家がそれぞれに固有のものとして身につける「剣の理法」です。

 こればかりは誰もが教えることはできず、各人それぞれが「百錬」の末に「自得」するしか方法がありません。

 しかし言い換えれば「剣の理法」以外の部分、すなわち「剣の理法」を自得するための「手段」の部分については、指導者がこれをきちんと正しく教えなければならないもののはずです。

 これを正しく教えないと、剣道は最初から間違った方向に行ってしまいます。

 間違った方向での剣道修練はいくらやっても、すなわちどんなに「百錬」したとしても、正しい「剣の理法」を「自得」することにはならないのです。

 ところが、これまでここに書いてきたようなこと、すなわち、

 ・「剣道は武道である」ということ。
 ・また、「剣道は何を稽古し、何を学び、何を修練するものなのか」
  ということ。
 ・さらには「剣道によって何が身につくのか」「剣道の目的は何なのか」
  ということ。

 このような、剣道修練の方向性を決める上で非常に大切なことを、子供たちや初心者が理解できるように説明できる指導者が、最近は非常に少ないような気がします。

 剣道は武道なのかスポーツなのかをきちんと説明できなければ、剣道はどうして面打ちを大切にするのか、大きな声を出さなければ一本にならないのはなぜなのか、打った後に相手の後ろまで駆け抜けるのは何のためなのかというようなことを、子どもたちや剣道の初心者が納得できるように説明してあげることは難しいと思います。

 彼らにとって、自分たちが向かうべき剣道の方向性に対して疑問を持ったままに剣道の稽古を続けていたのでは、迷いはますます深まるばかりです。

 そんな状態では、そこに剣道の真の魅力を見つけ出すことはできないでしょう。

 ですから私たちは、決して「百錬自得」という言葉を、指導上の言い訳にしないよう気をつけなければならないと思います。


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剣道の試合の意義

 剣道の試合というと、学んだ剣の技を試す機会だと思っている人も多いと思います。

 しかし先に述べたように、剣道とは「剣の理法」を修練するものです。ですから剣道における試合というのは、剣の技を試すのではなく、自らが学び修練した「剣の理法」が正しいかどうか、すなわち自得した「理法」が本当に「理に適った法則」であるかどうかを試す機会と捉える方がよいのではないかと思います。

 たとえば、剣の理法を修練するということは、自らを新開発のスーパーコンピュータと仮定し、それを動かすプログラムを開発をするようなものだと考えてみてはいかがでしょうか。

 プログラムを作るための知識やテクニックは、基礎学習や既存のプログラムの解析など、様々な方法(稽古)によって学ぶことができますが、自分自身というコンピュータを動かすプログラムは、試行錯誤を繰り返しながら(修練)自らが開発し作り上げて行かなければなりません。

 そして、プログラム開発にはデバッグという作業が非常に重要です。

 これはバグと呼ばれるプログラム上のミスを取り除くために、様々な条件で実際にプログラムを動かしながらエラーの出る箇所を探し出し、これを一つ一つ修正して行く作業です。俗にバグ取りなどとも呼ばれ、このバグの数を限りなくゼロに近づけて行くことが、プログラムの完成度を高めることになります。

 剣道の試合も、このデバッグのようなものと考えることができます。

 すなわち、試合で負けるということは、自らの「剣の理法」というプログラムにバグがあったということになります。ですから、このバグを修正しプログラムの完成度を高めて行けばよいわけです。

 ところが、試合で勝ったということは、必ずしもプログラムにバグがなかったということにはなりません。たまたまその試合ではバグを発見できなかったというだけのことなのです。

 このため、試合に勝つということは、プログラムのデバッグという意味では、必ずしも有効な手だてではない場合があります。

 実は、宮本武蔵もそこに気がつきました。

 先に紹介したように、生涯60余度の真剣勝負をした武蔵は、30歳を越えると表だった試合をやめてしまいます。
 五輪書の序文には、

   我三十を越て過去を思ひ見るに、兵法に至極して勝つにはあらず。
   をのづから道の器用有りて天理をはなれざる故か。
   又は他流の兵法不足なる所にや。
   其後尚も深き道理を得んと朝鍛夕練して見れば、
   自ら兵法の道に合ふ事我五十歳の頃なり

 と書かれています。

 バグ取りの完了していない未完成のプログラムをベータ版と呼びますが、武蔵は若さに任せてこのベータ版で世に出てしまいました。

 しかし、たまたま天性の才能を持っていた武蔵は、ベータ版でもプログラムがエラーすることなく、バグをすり抜けて勝ち続けてしまいました。

 しかし三十歳になった武蔵は、「兵法至極にして勝つにやあらず」と、自らのプログラムが完成域に達していたから勝てたのではないことに気がつきます。

 そこで、バグだらけのベータ版の自分を世に出すことをやめ、「其後尚も深き道理を得んと朝鍛夕練して」自らの兵法(剣の理法)を見直して丹念にバグ取りに励みます。

 そうして五十歳になったときに、ようやくすべてのバグ取りが完了したと自覚したわけです。
 若いうちには、たくさんのバグがあるのが当然です。にもかかわらず試合に勝つということは、たまたまバグをすり抜けてしまったか、あるいはその試合に勝つためだけに動くプログラムに改変してしまったという可能性があります。

 あるレベルの試合に勝つためにプログラムをそのつど改変して行けば、ある程度のところまでは勝ち続けることができるかもしれません。しかし改変に改変を重ねたプログラムは次第に複雑になり、いずれはどこかで破綻してしまう可能性が非常に高くなってしまいます。

 もちろん、試合に勝つことを目指すことがまったく良くないと言っているのではありません。
\r\n 武蔵もそうであったように、不完全なプログラムであっても若いうちは試合に勝つという経験は非常に重要ですし、それが剣道を継続して行く意欲にもつながって行きます。

 しかし、これから真の武道としての剣道を目指そうとする私たちとしては、ここで剣道における試合の持つ意味についてもう一度しっかりと確認をし、試合の意義を自らの「剣の理法の修練」にどのように関連付けて行くかを考えると共に、子供たちの指導に際しても、それぞれのレベルに応じた「試合の位置づけ」について十分に留意するよう努力してゆくべきだと思います。


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まとめ

 この頁では、剣道の理念を基に、剣道の手段と目的について「剣の繰法の稽古」と「剣の理法の修練」という観点で整理してみました。

 すなわち「剣道」というのは、剣の繰法の厳しい稽古をはじめとする様々な手段を通じて剣の理法を自得する道を指し、この剣の理法の修練によってさらにその奥にある武士の精神を学んで人間形成に活かすことが剣道の目的であると定義しました。
 そして、日本刀を用いた剣の繰法は形稽古や組太刀稽古などによって学ぶものであり、竹刀を用いて修練するのは剣の繰法ではなく剣の理法であるとしました。

 さらに、剣の理法はなぜ自得しなければならないのか、また剣の理法の修練の一つの方法としての剣道試合の持つ意味等についても考察してみました。

 しかしながら、剣道をこのように「繰法の稽古」と「理法の修練」とに分けて考えたとしても、現実の問題として日本刀の繰法と現代剣道における竹刀の繰法との違いに疑問を持つ人も少なくないと思います。
\r\n そこで、次頁では、剣の理法を修練する上で、現代剣道における竹刀繰法の持つ意味や目的などについて推論してみたいと思います。


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