剣道の姿勢
剣道では、姿勢が大事と言われます。ですから剣道を習い始めると常に「良い姿勢で構えなさい」と指導されると思います。
この良い姿勢を言葉で言うと「安定性があって、よくバランスがとれていて、無理のない姿勢」ということになります。
ところが、初心者の多くは「良い姿勢」と言われると、「気をつけ」の姿勢をしてしまいます。なぜなら、私たちは子どもの頃から「良い姿勢」は「気をつけの姿勢」であると教わっているからです。
この「気をつけ」の姿勢というのは、膝や股関節をしっかり固めて地面に踏ん張った感覚で立ち、腰を前方に入れるようにお腹を前に出して胸を張り、あごをやや引いた姿勢です。
一見堂々とした姿勢で確かに姿勢良く見えるのですが、これは筋肉を固めた状態で膝や腰の関節をロックして長時間動かずにいられる、いわゆる「直立不動」の姿勢です。言い換えれば「簡単には動かない」姿勢なのです。
実は、武道で言う「良い姿勢」というのは「自然体」のことです。これは、「気をつけの姿勢」とは反対に「いつでも動ける」姿勢でなくてはなりません。
自然体の姿勢は、ちょうど軽くジャンプして着地し、スッと立ったときの姿勢です。両脚を肩幅より小さめに開いて膝は伸ばさず曲げずにして、息を「ふ~っ」っとはきながら、両肩の力を抜いて胸を落とし、おへその下の丹田に全体重を集めるような感覚を持ちます。
このときの姿勢を写真に撮って逆さまにして見ると、どこにも力が入らずに自然に天井からぶら下がっている感じに見えるはずです。もしも自分の剣道の構えの写真があったら、それをひっくり返して見て下さい。どこかに力が入っていたり姿勢がゆがんで不自然に見えたら、その構えは自然体でないということです。
五輪書には、「兵法の身なりの事」として、姿勢について非常に具体的な記述がありますので、こちらも参考にしてみましょう。
身のなり、
顔は俯(うつ)むかず、仰(あお)がず、傾(かたむ)かず、ひずまず、
目を見出さず、
額に皺(しわ)をよせず、眉間に皺をよせて
目の玉の動かざるやうにして、瞬(まばた)きをせず、
目を少しすくめるやうにして、うらやかに見る顔、
鼻すじ直にして、少し頤(おとがい)を出す心なり、
首は後ろの筋を直に、頸(うなじ)に力を入れて、
両の肩をさげ、脊筋(せすじ)をろく(真っ直ぐ)に、
尻をいださず、
膝より足の先まで力を入れて、
腰の屈(かが)まざる様に腹をはり、
楔(くさび)をしむると云て、
脇差の鞘に腹を持たせ、帯のくつろがざるやうに為す可し
と云ふ教へあり、
総て兵法の身において、
常の身を兵法の身とし
兵法の身を常の身とすること
肝要なり、
よくゝゝ吟味すべし、
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骨盤の前傾
剣道の上手な人の構えをよく見ると、一般的に胸を張り、おへその辺りが前へ出ていても、お尻がやや後ろへ突き出されているような感じに見えるのではないでしょうか。
実は、これは尻が出ているのではなく、袴の腰板が腹より高くなっている状態で、言い換えれば、腰、すなわち骨盤の後ろ側が高くなっているのです。これを骨盤が前傾している状態と言います。
実は、この「骨盤の前傾」が剣道の構えではとても大切です。先の五輪書の記述にも、
尻をいださず、
と述べた上で、
膝より足の先まで力を入れて、
腰の屈まざる様に腹をはり、
楔をしむると云て、
脇差の鞘に腹を持たせ、帯のくつろがざるやうに為す可し
とあります。
単に腰やお腹だけを前に出そうとすると、骨盤は後傾ぎみになります。骨盤が後傾すると、膝が緩んで「ひかがみ(膝の裏)」が曲がってしまいます。ですから「膝より足の先まで力を入れて」ひかがみを伸ばし、骨盤を後傾させないようにしながら腹を張る感覚が必要です。
骨盤が後傾した姿勢は、ちょっと威張っているような姿勢です。一見堂々とした構えのようにも見えますが、骨盤が後傾していると前進力が生まれにくくなります。実は、高段者でも時折こういう構えの人を見かけます。このような構えの人は、両足の踵が床に着き、常に後ろ足に体重がかかっていて、後の先で応じるような剣風になってしまいがちです。
骨盤を前傾させた姿勢で一番のお手本になるのは「能役者」の姿勢です。また、最近よく目にするアイススケートの選手の姿勢も参考になるかと思います。スケートで滑りながら前進する選手の姿勢は、尻が出ているのではなく骨盤が前傾している姿勢です。
骨盤を前傾させるためには、背骨と腰を支える大腰筋や腸腰筋という身体の内部の筋肉(内部深層筋=インナーマッスル)を鍛える必要があります。これは後に述べる歩行動作を訓練することで鍛えられますので、まずは骨盤を前傾させるという感覚をつかみ、それを身につけるよう努力してみましょう。
もう一つ、骨盤を前傾させる感覚をつかむ上で大切なのは、帯を締めることです。最近は大人になっても帯を締めないで袴を履く人が多いようですが、剣道着はそもそも和装ですから本来ならば帯は必須のはずです。
武蔵も「楔をしむると云て、脇差の鞘に腹を持たせ、帯のくつろがざるやうに為す可し」と書いているように、帯をややきつめに締めることによって、骨盤の前傾の感覚がよりつかみやすくなります。
そして、帯を締めた正しい着装で袴を履くと、袴の裾のラインがやや前下がり後ろ上がりになります。このラインと胴の下側のラインが横から見たときに平行になっていると、美しく見える姿勢になります。この辺も、よくよく吟味してみてください。
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目付について
古くから「一眼二足三胆四力」と言って、剣道の稽古では、眼の働き、いわゆる「目付」が非常に大切な要素とされています。
剣道の稽古は、表面的には技の応酬ですが、一方で心の鍛錬でもあります。つまり、剣道というのは技と技の争いであると共に、心と心の争いでもあるわけです。そして、その心の有り様を最もよく表すものが眼です。
ですから、相手のどこをどのように見るかという「目付」が非常に重要であり、「目付」の如何によっては、相手の心を読むこともでき、逆に自分の心を読まれてしまうことにもなります。
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遠山の目付
目は心の窓とか、目がものを言うとか言われるように、人の心の動きは目に現れやすいものです。そのため、剣道では、相手の目の動きを通してその意志を察知することが必要になってきます。しかし、これは同時に自分の心の動きも目に現れてしまいやすいことをも意味しています。
そこで、相手のどこか一カ所を注視するのではなく、はるか彼方の遠い山を見るように、相手の構え全体を見て調和がとれているか、どこに隙があるかなどを見破る目を養わなければなりません。これを「遠山の目付」と言い、剣道の稽古や試合においてきわめて大切なこととされています。
自分の目を相手の目に向けたまま、その目のみに注視することなく、相手の頭のてっぺんから足の先まで全体を視野に収め、なおかつ左右の周囲の状況までに気を配れるような「目付」を心がけます。
このような目付は、自分の心が定まらないと、なかなか上手くできないものです。「打ちたい、打たれたくない」という気持ちが働いてしまうと、ついつい「遠山の目付」を忘れて、打突部位を見てしまったり、相手の剣先を見てしまったりしてしまいます。
そこで、こうした気持ちが働かないときに「目付」の稽古をすることをおすすめします。それは、稽古で並んで待っているときの「見取り」や、試合で「審判」をするときです。
紅葉を見るときも、木のそばから見るのではなく、遠くから眺めてはじめて紅葉の美しさがよく見えます。このため、全体を見る目付を「紅葉の目付」と言う場合もあります。
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二つの目付
剣道の基本は「遠山の目付」「紅葉の目付」ですが、最初から全体を見るというのは、先に述べたようになかなか難しい面があります。人間はどうしても心が何かにとらわれると、一ヶ所を注視してしまう傾向があります。
\r\n そこで一ヶ所に心をとらわれないようにするために、あえて二カ所を同時に見て、一カ所に心が偏るのを防ぐ方法があります。それが「二つの目付」と言われるものです。
二つの目付を行うためには、まずは相手の剣先と小手の二つに気を配ります。試合や稽古などにおいて、この二箇所は相手が動作を起こそうとする場合に一番先にその動きがかたちとなって現れやすい箇所です。そのため、この二ヶ所に気を配ることによって、相手の心の動きを察知しやすくなります。
ただし、剣先あるいは小手と、どちらか一ヶ所に心を奪われてはいけません。あくまで、剣先と小手を同時に見るよう心がけることが大切です。
慣れてきたら、今度は相手の小手と足先の二ヶ所を見るようにし、さらに相手の顔と足というように、その視野を次第に広げて行き、最終的には全体を広く見渡せるような「遠山の目付」を修得するよう努力します。
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観の目と見の目
「五輪書」には「観の目強く、見の目弱く」という教えがあります。
「観」というのは心で観ることです。人は実際に目で見える現象、すなわち「見の目」で得られた情報に心を奪われやすいものです。しかし目に見える小さなことに心を奪われると大局を見落として心に迷いや疑いを生じてしまいます。
相手を見るときには、目で見るのではなく心で観るように心がけて、常に物事の本質を見極めることに重点を置き、相手の心中や周囲の状況を見抜いて、どこに隙があって、どちちらに分があるかを大局的に判断することが大切です。
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姿勢に現れる目付
集団で記念写真を撮るときのカメラマンの姿勢を思い出してください。
集団の1人1人に気を配り、被写体各人の位置や服装などをチェックするときのカメラマンは、やや上体を前のめりにさせながら、目をこらすように見開いて「そこの人、顔が隠れるのでもう少し右に」とか「前の人、ネクタイが曲がっていますよ」などと声をかけます。
一方、各人の位置取りが終わり、背景を含めた全体の構図を決めようとするときは、カメラマンは上体を後ろに引くようにして、やや目をすくめて被写体である集団の手前から奥の背景までを、広く大きく見ようとします。
実は、人間の目にもカメラのレンズなようなズーム機能があり、それが姿勢にも現れるようです。
「遠山の目付」は、一カ所に集中せず、広角レンズのように広く全体を見渡す目付です。背筋を伸ばして、上体をやや引き気味にし、目をすくめるようにして、相手の頭の先から右足の爪先までをうらやかに見る心持ちが大切です。
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常の身と兵法の身
最後に、剣道の姿勢や目付けを学ぶ上でもっとも大事なことは、
常の身を兵法の身とし、
兵法の身を常の身とすること
肝要なり
ということです。
剣道のときだけ姿勢を正そうとしてもなかなか上手くは行きません。普段の生活の中で、立つときや歩くときに、自然体の姿勢を意識し、上体の力を抜いてひかがみを伸ばし、骨盤を前傾させる感覚を身につけると共に、周囲を広く見渡して、一カ所に気を取られないよう心がけることが大事です。
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