[2]心の持ち方

平常心

 剣道を始めようとする私たちは、まず竹刀を持ち、それを構えようとします。しかし宮本武蔵の五輪書は、剣の持ち方の前に心の持ち方を説いています。

 どのような心を持ち、どのような心構えで剣道を学ぶのか、これを知るところから始めなければ、剣道はただの棒叩きゲームになってしまうかもしれません。

 では、心の持ち方はどうあるべきか。

 五輪書には、「兵法心持の事」として、

  兵法の道において、
  心の持様は、常の心にかはる事なかれ

と記述されています。

 いわゆる「平常心」の教えです。しかし、これを単に「剣道で戦うときも平常心であれ」という程度の意味にとってしまっては、本当に理解したことにはならないでしょう。

 ここで言う平常心の教えとは、剣道の時の心の持ち方を常の心、すなわち平常心としなさいという教えなのです。

 言い換えれば、剣道をしていないときも剣道をしているときと同じ心構えでいなさい。それが平常心です。という教えです。

 その上で五輪書は、

  心を広く直(まっすぐ)にし、きつくひっぱらず、少もたるまず、
  心のかたよらぬやう、心を直中(まんなか)に置て
  心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに

  能々吟味すべし、

と、まずは心のバランスを保つことが重要であることは説いています。

 さらに、

  静なるときも、心は静かならず、
  如何に疾き時も、心は少もはやからず、
  心は体につれず、体は心につれず、
  心に用心して、身には用心をせず、
  心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、
  上の心はよわくとも、底の心をつよく、

  心を人に見分けられざるやうにして

  小身なるものは、心に大い成事を残らず知り、
  大身なるものは、心に小きことをよく知りて、
  大身も小身も心を直にして我身の贔弱をせざる様に、心持ち肝要なり、

と、大事のときも平時のときも、外部の事象に影響されることなく、心を真っ直ぐにして動揺変化させないようにすることが肝要であると述べています。

 そして、

  心のうち濁らず、広くしてひろき処へ智恵を置べきなり、

  智恵も心もひたと研くこと専らなり、
    智恵を磨ぎ、天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、
    万の芸能、其の道にわたり、
  世間の人に少しもだまされざる様にして後、兵法の智恵成るなり、

  兵法の智恵に於て、取分けちがふ事ある物なり、

  戦の場、万事せわしき時なりとも 兵法の道理を極め動きなき心

  能々吟味すべし、
■と、広く大きな視野を持って知恵を磨き、あらゆることの道理を見極め、剣道で学んだことをしっかりわきまえて、どんな緊急時においても剣の理にかなった不動の心で対処することが大切であるとしています。


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気位

 剣道では、「気位」ということが特に強く要求されます。これは、稽古の修行によって技と精神が一体化し、自然にできあがる品位です。

 外見上でこれという「形」に現れるものではありませんが、心の持ち方から発せられる充実した「気」の働きが、積極性を盛り上げ、同時に身体の旺盛な働きを作り出し、見る者にひしひしと迫る「気位」を感じさせます。

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止心

 剣道で陥りやすい心の状態に「止心」があります。止心というのは、心がある一つのことにとらわれ、他のことが見えなくなって注意力が行き届かなくなってしまう状態です。

 たとえば、稽古や試合の最中に「打たれたくない」という思いが生じれば、ただただ、相手の竹刀を受け止めよう、はずそう、かわそうと、そのことばかりに心を止めて、相手の竹刀しか見えない状態になり、注意力がただ一点に凝り固まって、相手の身体の動きや心の動きを見る余裕がなくなってしまいます。

 こういう状態を心が止まった「止心」と言います。

 止心は、実際には意識しないうちにそうなることが多いので、特に注意しなければなりません。止心を生じさせないためには、一点ではなく、全体をじっくり見通す「遠山の目付」「紅葉の目付」心がけることが大切です。

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四戒

 止心を生じさせる原因に「驚・懼・疑・惑」という四つの心の状態があり、剣道ではこれを「四戒」として、この中の一つでも心の中に起こさないように戒めています。

 驚は「おどろく」
 懼は「気づかい」「おそれる」
 疑は「あやぶむ」「あやしむ」
 惑は「心が乱れる」「思いあやまる」

です。

[驚]
 相手の行動や周囲の動静など、予期しない事象の変化に驚くと、一時、心が混乱し、正しい判断と適切な処置ができなくなってしまします。さらに、それが甚だしいときには、茫然自失する場合もあります。

[懼]
 心に恐怖の概念が起こると、心の活動がとまり、物事を冷静に観察し見極めることができなくなります。また、甚だしいときは手足が震え呼吸が乱れます。

[疑]
 疑いの心が起きると、相手の動きや周囲の状況を正しく把握することができず、自分の心に決断がつかなくなり、物事の判断が遅れます。疑い深くて決心できないことを狐の性質にたとえて「孤疑心」とも言います。

[惑]
 心が混乱して迷い惑うときは、敏速な判断ができなくなり、無駄な動作や行動が増えて素早い対応ができなくなります。

 このように、剣道の勝負は技だけではなく、心の動きに支配されることが多いものです。常に四戒を心において修行することが大切です。

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放心

 一般に「放心」と言うときは、こころがぼおーっとしてしまりのない状態を言う場合が多いのですが、それと剣道で言う「放心(こころをはなつ)」というのは全く違います。

 剣道で言う「放心」とは、「止心」の反対のことで、心をどこにも止めず、思い切って解き放して心いっぱい打ち込むということです。

 先に述べたように、心がある物にとらわれてしまえば、そこに心が凝結して(止心)、自由な動きができず、失敗を招きますが、心を物にとらわれないようにし、自由自在に解放(放心)してしまえば、隅々まで注意が行き渡り、どんな小さな変化、どんな突然の動きもとらえて、それに対処することができます。

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捨て身

 心を解き放すためには「捨て身」になることが必要です。危難に直面したときも、我が身を捨てる覚悟で、全力を尽くして事に当たれば、思わぬ力が生まれて、活路を見いだせると言われています。

 断固として行えば、鬼神もこれを避けるとも言われているように、四戒を振り払い、心を止めず、心を放って、身を捨てて大胆に踏み込み、打突するのが剣道です。

  山川の 瀬瀬に流るる栃殻も
   身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ

という歌があります。

 これは山間を流れる川の瀬瀬に沈んでは流されていく栃殻も、中の実を捨てたときに初めて浮かび上がることができるという意味で、ここに「捨て身」の深い教えが見られます。

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残心

 捨て身になるということは、ただの自暴自棄になることではありません。身を捨てて、後は野となれ山となれということではなく、心を放ち捨て身の行動をしたあとには、「残心」がなければなりません。

 残心というのは、剣道の技法編で説明したように、剣道の技術としては、打突が終わったあとでも少しも油断せず、次に起こるどんな変化にも、直ちに応じられる「身構え・気構え」を示すことを言いますが、これは「放心」した後に自然にそこに油断のない心が残るからできることです。

 コップの水を少しづつたらたらとこぼすと一滴も残りませんが、一気に思い切ってパッと捨てる(放心)と、コップの底に少しだけ水が残ります。これが残心と昔からの教えにあります。

 心は、広く真っ直ぐにして、どこにも止まらず自由自在に働き、行動に当たっては心を思い切って解き放ち、その後に残る心を大切にするという修行をするのが剣道であり、その剣道の心の持ち方を常日頃から心がけるのが平常心ということだと思います。

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