剣道の攻め
剣道の理合を十分に理解し、心の持ち方をわきまえてくると、剣道の修行は打突技術の巧拙を競うものではなく、心と心で戦う「攻め」の修練の段階へ進みます。
そこで、この章では「攻め」の技術についてもう少し具体的に研究してみたいと思います。
もちろん、この「攻め」という技術に関しては、なかなか他人に教えたりすることのできないものであると同時に、他人から教わって、すぐにできるようになるものでもありません。また、私自身も未だ試行錯誤の状態にあります。
かつて、ある先生に「攻め」の教えを請うたところ、「自転車の乗り方と同じ」と言われたことがありました。
つまり、自転車に乗ってバランスをとるためには、倒れようとする方向にハンドルを切って立て直し、また反対方向に倒れようとしたときには、その方向にハンドルを切る。・・・ ということを理屈で教わってわかったとしても、すぐに自転車に乗れるようにはなりません。
自転車に乗れるようになるには、結局何度も何度も転びながら、そのコツを自らが体得して行くしかありません。これが「自得」です。
剣道も同じだと言うのです。そして、この自得するために歩む道こそが剣道そのものであるとも言えるわけです。ですから、皆さんも大いに悩んで、失敗して、それを乗り越えて行くのが、剣道の道だと理解してください。
その上で、あえて剣道の「攻め」について私見を交えながら探ってみたいと思います。
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攻めの位置づけ
まずは剣道の技術において、「攻め」というのはどういう位置づけにあるのか、多くの方々に馴染みの深いボウリングにたとえて説明してみましょう。
ボウリングでピンを倒そうとするとき、皆さんはどこを狙いますか?。
最初からピンそのものを狙ってボールを投げるのは素人と言われます。ピンまでの距離はおよそ18メートルほどもありますので、上手な人、プロ級の人は、遠くにあるピンを直接狙うのではなく、4~5メートル先に描かれているスパットというレーン上の印を狙って投げます。
ボウリングをやったことのある人ならばご存知でしょうが、ボウリング場のレーンには、まず自分が立つ位置にスタンスドットと呼ばれる丸い点が2列に並んで描かれ、投球位置にはリリースドットと呼ばれる同じ丸い点が横一列にあり、さらにそこから4~5メートルほど先のところにはスパットと呼ばれる三角形の印が逆V字形に並んで描かれています。
ボウリングの上手な人は、まずスタンスドットを目印にして立つ位置を決め、そこからリリースドットを目標に進み、さらに投げたボールは何番目のスパットを通すかということを計算しながら投げています。
最初に立つ位置と進む位置が正しく、ボールが正確に目標のスパットを通れば、あとは目をつぶっていても、ボールはいつも投げている球筋どおりに一定のところで一定の量だけ曲がり、最終的に狙うべきピンに当たるというわけです。これをスパットボウリングと言うそうです。
ですから、ボウリングが上手になるためには、まずはいつどこで投げても一定の距離のところで一定の量だけ曲がるという球筋、すなわち正確なフォームから繰り出される正確な投球が必要です。プロは、何度も何度も投球フォームを繰り返すことによって、これを体に身につけます。
そして正確な投球が出来るようになったら、今度は立つ位置、投げる位置、通すスパットと投げられたボールの球筋との関係を正しく知らなければなりません。これをアプローチと言います。
アプローチの方法を身につけるためには、ポイントとなる様々な位置を微妙に変えて試行錯誤を繰り返し、何番ピンを狙うためには、どの位置に立ってどの位置で投げ、どのスパッツを通すかということを一瞬で判断できるようにならなければなりません。
さらには、ボウリング場の違いや、レーンのコンディション等による微調整も必要になってきます。
でも、私たちがボウリングを楽しむときに、ここまで考えてやることはまれですね。
スパットという印の存在は知っていても、先に紹介したような詳細な理論までを熟知しているわけでありませんし、そもそも前提となる正確な投球が身についていませんので、その場その場の投球ごとにフォームを変えたり手首をこねくり回したりしてボールをコントロールしようとし、その結果ピンが倒れた、倒れなかったに一喜一憂しています。
そして、今日は150点いった、200点いった、いやいや調子が悪くて100点を切ってしまったなどと、互いに取った点数を競争するわけです。
もちろん、ボウリングを一つの娯楽としてとらえるなら、これで十分です。仲間同士で楽しくプレイして、ある程度のストレス発散ができたら、ボウリングはそれで娯楽ゲームとしての効用が十分にあると思います。
ただ、アベレージ200点超えの上級者、あるいは300点満点を目標とするプロを目指そうとしたら、上記のようなプレイの仕方では、ちょっとおぼつきません。
実は、剣道の道場においても、ボウリング場で単にゲームを楽しむような「稽古?」をして、取った点数を自慢し合っている人たちが意外に多いように思うのですがいかがでしょうか?。
基本的な投球練習(素振りや打ち込みなどの基本)をあまりしていないため、正確な投球(正しい打突)が身についておらず、アプローチの理論(攻めの理合)を十分に活かすことなく、立つ位置や投げる位置(間合や正中線の攻防)がめちゃくちゃで、手首をこねくり回すような投球(姿勢を崩した打突)で、スパットを通す(中心を攻める)意識もなく、ただ18メートル先のピン(相手の打突部位)を直接狙って倒そう(当てよう)とするような剣道です。
たとえば、剣道の稽古において、一つの打突が失敗したとき、その失敗の原因をアプローチ、すなわち攻めの部分に求めて、今度は立つ位置を少し変えて、相手と対峙したときにこの間合からこのタイミングでこの方向に攻めてみようなどと考えますか?。
どちらかというと打突の失敗の原因を打突そのものに求めてしまい、こう打ったら上手くいかなかったから、今度はこう打ってみようと考えてしまいがちではありませんか?。
しかし、これですとボウリングで手首をこねくり回してボールをコントロールしようとするのと同じことになってしまいます。一投一打ごとに投球フォーム・打突フォームを変えてしまったのでは、いつまで経っても正しいフォームと正確な球筋・正確な打突は身につきません。
投球方法・打突方法を変えて結果を求めるのではなく、いつも正しい投球・正しい打突のままで結果を出せるよう、事前のアプローチ・攻めを工夫することが大切だろうと思います。
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攻めと色
剣道の技術において、「攻め」というものがどういう位置づけにあってどれだけ大切なのかということは、先のボウリングのたとえで説明したとおりです。次に、ボウリングのアプローチに相当する剣道の攻めを、具体的にどう行うかということについて、考えてみたいと思います。
剣道における打突の基本は、剣先と剣先が触れ合う、いわゆる触刃(しょくじん)の間合から、一足一刀で打てる、いわゆる交刃(こうじん)の間合まで、一歩入り込んで打つことです。この一歩の入り込みが、体勢の上では「攻める」ということになります。
ただし、この入り込み方がなかなか難しいのです。「攻めよう、打とう」という気持ちを持って入り込めば、それは「攻め」ではなく「色」になってしまいます。かといって、相手が全く動じないような入り込み方は無謀なだけです。相手の心(潜在意識)を動かすような入り込み方が必要です。
宮本武蔵は、五輪書で「陰(かげ)を動かす」と説明しています。こちらの「攻め」によって、相手の「陰(無意識の心=潜在意識)」を動かすような攻め入り方のことです。
力を抜いて、相手の呼吸を読んで、剣先で中心をとりながら自然に、しかし力強くズーウッと入り込んで、相手が気づいたときには、一足一刀の間合の内で、いつでも打てる体勢になっていることが大事です。
こちらの「攻め入り」によって、相手の心(陰)がドキッとして居着いたら、すかさずその居着いたところを打つ(枕を押さえる)という「懸の先」。
また、攻め入ったときに相手の心(かげ)が反応して打ってきたら、その心の反応を捉えて先に打つ(影を抑える)という「対々の先」。
更に、相手に十分の打ちを出させておいて応じる「待の先」。
まずはこの三つの先を意識して稽古することが大切です。
瞬時に、そして無意識にこの三つの先を使い分けられるようになるためには、とにかく上位の先生を相手に「一歩出て打つ」という打ち込みを繰り返す中から体得して行くしかないと思います。
そして、その上で、自分より下位の人と稽古するときには、今度は相手に「攻めさせて」打つという勉強も必要です。
「どうぞ打ってください」という気持ちで、ほんの僅か身を入れて行くと、相手が先に「攻め入って」来ます。しかしその「攻め」はこちらの心(かげ)に反応しての攻めですから、こちらにとってはそれが相手の「色」になります。ですから、その「色」に対して、先ほどの三つの先で対処する方法を稽古します。
上位の先生にはひたすら懸かり、下位の人との稽古では相手を十分に引き出すことを心がけて稽古していると、次第に「攻め」と「色」の微妙な違いが見えてくるはずです。
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おもてをさす
前章で述べたように、中心は剣先で取るのではなく、竹刀の重心点で取るのというがコツです。
剣先で正中争いをしようとすれば、左手を支点として右手に力を込めるような剣使いになってしまいます。これでは大きな力は発揮できませんし、裏を取られると簡単に剣先が中心を外れてしまいます。ですから、常に剣先がふらついてしまいます。
五輪書の「おもてをさすと云ふ事」では、
おもては面なり、
面をさすと云は、
敵と立合になりて、
敵の太刀と我太刀の間に、敵の顔を我太刀先にてつく心なり、
敵の顔をつく心あれば、敵の身乗るものなり、
敵を乗らするやうにすれば、いろゝゝ勝つ所の利あり、
能々工夫すべし、
と述べています。
中心取りのコツは、剣先で相手の剣先を上下左右に押さえ込むのではなく、武蔵の言うように、剣先で相手の面(おもて=顔)をさす(刺す=指す)ような気持ちで一気に前進して、相手の身を乗らす(仰け反らす)ようにすることです。
そして、このときに中心を取っているのは、実は剣先ではなく剣の重心位置です。
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日本刀を意識した攻め
さらにもう一つ、ちょっと高度な方法ですが、剣道形7本目を応用した中心の制し方があります。
剣道形7本目では、打太刀が中心を制して攻め入ろうとするときに、仕太刀はそれを下から支えるようにしながら応じます。このときの理合を考えてみましょう。
剣道形7本目の打太刀は、剣道形3本目の仕太刀の場合と同じように前進しつつ剣先で面(おもて)を攻めながら中心を取ろうとしてきます。これに対して仕太刀が横方向から力で正中争いをしようとすれば、その裏を取られてしまう可能性があります。
そこで、仕太刀は非常に巧妙な方法で中心を取り返します。
どうやるかといえば、まず打太刀の攻めに対して間合を確保するために自らの体は下がりますが、剣を前に出して応じます。これを剣前体後の捌きといいますが、これによって相手との間合を保った状態で、なおかつ相手の剣と自分の剣が互いの重心点付近で交差するかたちを作ります。
このかたちは、ちょうど剣道形4本目の切り結びの状態です。しかし、この切り結んだかたちのままでは、互いに鎬を削り合う互角の争いです。
そこで、仕太刀は剣を突き出すときに、その剣を僅かに右にひねりながら突き出します。剣道形の稽古にときにも、そのように教わりますね。
自分の剣の剣先と左拳を正中線上に置いたままで刀身を右にひねるとどうなるでしょうか?。日本刀は反りがあって湾曲していますから、剣先と柄頭を固定した状態で刀身を右にひねって寝かせると、ちょうど重心点の位置が反りによって左側に飛び出てきます。
実は、この作用によって、重心点と交差している相手の剣先は正中線を僅かに外れてしまうことになります。
剣道形7本目では、打太刀は中心を確かに取ったつもりで、その後に直ちに面に打ってきますが、実は仕太刀はその攻めに対して巧妙に中心を取り返しており、その後の抜き胴へと展開してゆくわけです。
このような中心の取り方は、反りのある日本刀の特長を活かした方法で、反りの無い竹刀でこれを実現するには、左拳を正中線からほんの僅かに外すという、ちょっとした工夫が必要です。ただしこれは一般的な竹刀繰法の教えにやや反するところもありますので、初心者にはお勧めできるものではありません。
しかし、竹刀を日本刀のように使うという工夫もまた必要だと思います。それぞれにぜひ研究してみてください。
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3つの隙
攻めの目的は、打突の機会を作ることにあります。打突の機会は、通常「技の尽きるところ」「起こりがしら」「居つくところ」という3つの許さぬところとされており、これらのいずれかが生じたときが「隙」になります。
「隙」には、構え、動き、心の隙があり、これらが複合してひとつの隙が生じます。言い換えれば、これらの隙を相手に生じさせるような行為が「攻め」ということになりますので、まずは3つの隙をしっかりと頭にたたき込んでおきましょう。
1、構えの隙
正しく中段に構えて動かなければ、そこに構えの隙は生じません。構えに隙が生じるのは、「打とう」あるいは「受けよう」として、中段の構えを崩したときです。ですから、構えの隙を生じさせるための攻めは、その攻めによって相手に打たせるか受けさせるような工夫をします。
2,動きの隙
隙は動きによって生じ、また動きによって消滅してゆくともいわれています。動きには虚と実という相反する性質があります。たとえば面打ちを受けるという動作は面の防御に対しては実の効果がありますが、同時に小手の防御は虚となって隙を生じます。動きの隙を生じさせるためには、虚実を見極めた攻めを工夫します。
3,心の隙
心は動作を起こす根源です。自由闊達な心の動きが止まり、どこか一カ所に居ついたときが心の隙です。心の隙を生じさせるためには、相手の心に「驚・懼・疑・惑」の四戒を招くような攻めを工夫します。
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虚と実
「実」というのは、心に気迫が充実して、油断無く、注意の行き届いていることを言い、「虚」というのは、その反対に、心身に隙の生じたときを言います。虚と実は表裏一体で、ある面が実になれば、その反対の面は虚になります。
ですから、相手の虚実の体勢を機敏に察し、自分の虚実を悟られないようにしながら、相手の実を避けて虚を攻め、勝ちを得なければなりません。
剣道の攻め合いは、互いの虚実の駆け引きでもあります。
この虚実の判断は、頭で考えて行うものではなく、無意識的にひらめいた動作になります。これを「勘」と言います。勘は稽古に稽古を積んで初めて身について行くものです。
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心の活用
剣道の稽古では、ただ漫然と打った打たれたを競い合うのではなく、常に自分なりのテーマを持っている必要があります。また、そういう稽古をしていると、剣道がますます楽しいものになってきます。
たとえば、比較的背が低く、腰を落として近間に攻め入ってくるような人は、その攻めによって相手を引き出し、打ってくるところを出小手や抜き胴に仕留めるのを得意とします。こういう相手に対して間合に入ってきたところを打ちに出てしまえば相手の思うつぼです。
そこで、相手の攻めに安易に反応せず、我慢して我慢して動かなければ、こちらの出を予測して攻め入って来た相手は、こちらの無反応に戸惑い、一瞬だけ居着く瞬間があります。そこを捉えて打つのを、最近の稽古で、私は心がけるようにしています。
しかし、これはなかなか難しいものです。心をどこにも偏らせず、静かに漂わせながらも、一瞬を捉える緊張感を持っていなければなりません。
もうひとつは、近間に攻め入って出ばなを狙う相手に対して、その狙いにあわせてこちらが反応してあげます。反応すると言っても実際に打ちに出るのではなく、僅かに自分の胸を出す、剣先をやや前に出す、右足を進めるなどの方法で打ち気を見せます。
すると逆に相手が反応して、出小手や抜き胴を打とうとして手元を上げますので、そこを打つか、完全に反応させて出ばなに出たところをすりあげたり返したりして応じます。これはある程度意識して稽古すれば意外と簡単にできるようになります。
後者は、剣道形6本目の理合に近いものと言えるでしょう。剣道形6本目では、打太刀が仕太刀の下段からの攻めに対して上段に振りかぶった後、更に一歩引いて中段に戻りますが、これによって仕太刀を引き出し、その打ってくるところを出小手に仕留めようとします。
仕太刀は、これに反応して引き出されたと見せかけて、胸を出すようにしながら身体を攻め入らせてゆきます。打太刀はこれを仕太刀が面に来る気配と見て取って素早くコンパクトに出小手に打って出ます。
ところが仕太刀はこれを読んでいて、その出小手の太刀をすりあげて小手打ちする訳です。相手の攻めに反応して引き出されたと見せかけて、逆に相手を引き出して仕留めるという理合です。
前者は心を動かさずに対処する方法、後者は心を活用して対処する方法とも言えるかもしれません。
よくよく工夫してみてください。
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打つと当たる
竹刀が当たるのは相手の身体であっても、打つのは相手の心でなければなりません。心を打つためには「攻め」が必要です。
攻めきって打つことができれば、太刀筋は常に一定になります。攻めが不十分だと、同じ太刀筋では見切られてしまうので、その都度太刀筋を変えなければ竹刀はなかなか当たりません。
太刀筋を変えて当てると、それはフェイント技になってしまいます。フェイント技では、相手の身体に竹刀を当てることはできても、相手の心を打つことはできません。
武蔵は云います。
打と云ふ事、当ると云ふ事、二つなり、
打と云ふ心は、何れの打にても重く受け、慥(確か)に打なり、
当るは、行当る程の心にて、
強く当り、忽ち(たちまち)敵の死する程にても、是はあたるなり、
打と云ふは、心得て打ところなり、
吟味すべし、
敵の手にても、足にても、
当ると云ふは、先づ当るなり、
当りて後を強く打たん為めなり、
当るはさわる程の心、
能く習ひ得ては、各別の事なり、
工夫すべし
「心得て打つ」というのは、「十分に攻めきって打つ」ということです。攻めがないままに竹刀を振って「当たって」、それで相手が死んだとしても、それは「打った」のではなく「当たった」だけなのだとまで言っています。
ただし、武蔵は「当る」ことを完全否定しているわけではありません。「当りて後を強く打たん為めなり」と、「当る」という技術も、「打つ」ということのために必要な技術であると言っています。
「当る」というのは、いわばリカバリー技術です。
たとえばスキーの場合、一流スキーヤーは、どんな雪質、どんな斜面でも、常に一定のフォームを崩さずに滑り降りてきます。
しかし、現実にはアイスバーンに足を取られたり、コブのショックを吸収できなかったりして、転びそうになることがしばしばです。そのときに瞬時に山足側のエッジに加重したり、スキーだけを前に走らせてショックを押さえたりというリカバリー技術が重要で、これが出来ないとたちまち転倒してしまいます。
テニスの場合なども同様です。テニスは「アシニス」とも言われるほどにフットワークが重要で、相手が打ち返すどんなボールも、自分が最も得意とする打点でとらえ、正確な返球をするよう、足をフルに使ってベストの位置に走り込み、常に一定のフォームでボールを打ち返すのが基本です。
しかし、これも現実のゲームの中ではボールがイレギュラーしたり、相手の厳しい返球にあって、体勢が不十分なままで高い位置のボールや極端に低いボールをすくい上げるように打たなければならないときもあります。そして、そういうリカバリーが出来るか出来ないかが勝負の分かれ目になることもしばしばです。
剣道でも、十分に攻めきった上で、常に一定の正しい姿勢と太刀筋でしっかりと「打つ」のが基本です。これが出来ないと昇段審査はなかなか受からないでしょう。
しかし、一方でどのような状況であっても、相手の打ちを瞬時にかわし、どんな体勢からでも反撃して「当てる」という技術も必要で、試合ではしばしばこれが勝敗を決めてしまいます。
どちらの技術も大切ですし、おろそかにしてはなりません。
大事なことは、武蔵も「能く習ひ得ては、各別の事なり」と言っているように、「打つ」と「当る」が、「格別のこと(別々のこと)」であると自覚できる段階になるまで「よく習ひ得なさい」ということです。
世の多くの剣道家は、この「打つ」と「当る」を混同してしまい、単に「当てて」喜び、あるいは「打たれて」も相手の竹刀が当たらなかったからと満足してしまう段階で終わってしまう場合があります。
ぜひ本論をきっかけに「攻め」について各自が更なる研究をしていただければ幸いです。
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