[3]剣道の稽古法

稽古の意義

 「稽古」とは、読んで字のごとく、「いにしえを考えて」行うことを意味します。

 稽古には、

  1、打ち込み稽古
  2、形稽古
  3、地稽古

があります。

 剣道は、「技を創る」ために竹刀を用いているのではありません。昔の人が命をかけた戦いを通じて到達した精神性を学ぶ手段の一つとしての「打ち込み稽古」を行うために使用します。

 「打ち込み稽古」というのは、竹刀でひたすら師の面を打ちます。相手に受けられても打ち返されても、ひたすら真っ直ぐに面を打ちます。

 師は、打ち込み者の手元が挙がれば小手を打ってその非を教え、脇が甘くなれば胴を打って甘さを教え、真っ直ぐに打てなければ喉を突いて正中を教えます。このように師の教えを伴う打ち込み稽古を「懸かり稽古」と呼ぶこともあります。

 こうした「打ち込み稽古」を5年、10年と続けることによって心と身体が錬られ、剣の技を学ぶ基礎が出来上がります。

 基礎ができたら、昔の人が編み出した「剣の技(剣の繰法)」を「形稽古」によって学びます。この「形稽古」も「剣の技を創る」ものではありません。あくまで「稽古」ですから、昔の人が編み出した技の「かたち」を忠実に再現して、そこに含まれる理合を「かんがえ(稽え)」ます。

 形稽古で、技の「かたち」を学び、「理合」をかんがえたら、その技を出す機会を、やはり竹刀を用いて互いの面を打ち込む「地稽古」によって身につけます。

 技を出す機会というのは、1/100秒、1/1000秒、1/10000秒と言って良いほどの一瞬です。その一瞬の機会を、相手と剣を合わせた攻防の中から創り出し、その創り出された一瞬の機会を確実にとらえて、そこに自らの持つ力を100%投入する。

 これが竹刀を用いて行う「地稽古」と呼ばれるもので、「地を創る」すなわち、打突の機会を自ら創って、その一瞬に全力を投入する上での必然性のある法則(いわゆる「剣の理法」)を身につける(自得する)ための修練方法です。

 形稽古によってどんなに高度な技を覚えても、その技を出す一瞬の機会を捉える法則(理法)を身につけなければ、その技は全く役に立ちません。ですから「形稽古(木刀・真剣)」と「打ち込み稽古(竹刀)」は車の両輪と言われます。

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稽古に入る前に

 剣道には厳しい稽古が必要ですが、剣道の稽古によって体を壊してしまったのでは主客転倒です。稽古に入る前には体調と衛生管理に十分気をつけ、怪我や事故の無いようにしなければなりません。

 特に指導者は、稽古に入る前に次のようなことに気を配るよう指導すべきだと思います。

  1、自分の身体の調子をじゅうぶんに知っておくよう指導し、決して無理
   をさせないようにする。
  2、手足の爪を短く切っておくようにさせる。
  3、準備運動を行い、常に万全を期すようにする。
  4、竹刀の点検をしっかりさせて、先革の破れ、中結(中締め)の緩みや
   切れなどがないように注意する。
  5、防具の紐、小手の皮、袴、稽古着など、防具や着装の破損や乱れがな
   いか気を配る。
  6,着装はしっかり確実にし、軽快な動きができるよう心がける

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打ち込み十徳

 昔から打ち込み稽古を行うことによって身につくものが十種あると言われています。これが「打ち込み十徳」で、次の10項目です。

 紙に書いて道場に張るなどして覚えておくと良いでしょう。

  1,技がはげしく速くなる
  2,打ちが強くなる
  3,息が長くなる
  4,腕の動きが自由になる
  5,身体が軽くなる
  6,長い竹刀が上手に使えるようになる
  7,身体が崩れなくなる
  8,相手がよく見えるようになる
  9,間合いが分かるようになる
 10,手の内がさえてくる

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懸かり稽古

 懸かり稽古は打ち込み稽古の一種で、自分より上手な相手に対して、正しい間合から気合を込めて激しく打ち込む稽古です。

 思い切った打ち込みの動作をすることによって、正しい間合、打突の機会、体の運用、竹刀を握った手の内のさえなどを身につけてゆく、剣道修得には避けられない大切な稽古です。

 懸かり稽古では、相手に打たれるということを一切念頭に置かず、体力、気力続く限り、多くの技を出して打ちかかることが大切です。

 懸かる方は、基本動作で学んだしかけ技を出し、かけ声を大きくして遠間から身体を十分動かし、あるいは近間に入って打ち、これを繰り返して、気力を尽くして稽古します。

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互角稽古

 互角稽古は、地稽古の一種ですが、技術程度の差のない者同士の稽古です。

 打ち込み稽古や、かかり稽古などが一応できるようになった段階で、平素習得した技をお互いに十分出し合い、試してみる稽古でもあります。

 自己審判によって行う試合稽古とも言えますので、一生懸命に技を出し争うのはもちろんのこと、目付、正しい間合、体勢、手の内の冴え、気力、打つ機会、心の虚実など、打ち込み稽古や懸かり稽古で学んできたことを、互角稽古を通して十分に発揮できるように心がけなければなりません。


おとなの剣道上達講座

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見とり稽古

 剣道の稽古を見て学ぶことを「見とり稽古」といいます。見とり稽古は、ただ単なる見学ではなく、剣道修行の稽古の一つとして重んじられています。

 一生懸命に行われる稽古や試合を見学する場合は、厳しい気持ちで、服装や姿勢を正し、あらゆる角度から観察して、相互の技の出し合いをとらえ、自分の日頃の技と比較対照して、反省の材料とするよう心がけます。
■ 見とり稽古では、次のような点をよく見ることが大切です。

[姿勢(身法)]
 正しい姿勢で、全身がのびのびとしているか。落ち着いていながらも、動作が敏捷で円滑であるか。技の癖がないか。足の位置、踏み方や竹刀の持ち方や振り方ははどうか、などを見ます。

[わざ(技法)]
 打突の速度、正確さはどうか、正中線上で気剣体の一致した技を出しているか。手の内、先、残心、間合、受け方はどうか、などを見ます。

[気勢(心法)]
 気力が充実しているか、注意が全体に行き渡っているか、驚懼疑惑の心はないか、理合に則った攻めで、どちらが優位に立って機先を制しているかなどをよく見ます。

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打たれて修行する

 上位のものから、打たれ、突かれ、はずされなどされて、苦心しているうちに、次第に自分の欠点、隙、応じ方などが分かってきます。

 同時に、相手の隙や打突の機会が見え、分かるようになります。

 ですから、下位の者は進んで上位の者に稽古をお願いしてやってもらい、常に苦しみ、悩んで、進歩することを考えなくてはなりません。

 こうした苦しみ、悩みが大きければ大きいほど、進歩も大きく、上達も早くなります。「打たれて修行する」とは、このように常に努力することを言っています。

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高段者との稽古

 高段者との稽古においては、しばしば面の打ち込み稽古のみを要求されることがあります。

 すでに本論をここまでお読みになってくださった皆さんにはその理由は十分に分かることと思いますが、この稽古法の章で、もう一度高段者との稽古の意義について整理してみたいと思います。

 そもそも「剣の技」というのは、本来ならば命をかけた真剣勝負で通用する技でなくてはなりません。

 たとえば、担ぎ技やフェイント技のように一か八かの奇をてらう技は、ある人には通じても、ある人には全く通じない場合があります。そして、もしも通じなかった場合には、その奇をてらう行為が自分にとっての大きな隙になり、逆に相手につけ込まれてしまうこともあります。

 スポーツのように、ポイントを争うゲームならば、このような技が失敗しても次回に挽回ということもありますが、命をかけた真剣勝負に「次回」はありません。つまり、失敗はすなわち自分の「死」ですから、このような偶然に頼った一か八かの技というのは真剣勝負の世界では危なくて使えません。

 そこで、剣の修練というのは、どんな場合でも、どのような相手に対しても必ず通じる「技」、すなわち、こうすれば必ずこうなるという「必然の法則(理法)」に基づいた「必然の技」を探るための修練になります。

 そして、昔から剣豪・名人と呼ばれた人たちが最終的に行き着いたこの必然の法則に基づく唯一の「技」が、「初太刀で身を捨てて相手の顔面を打つ」ということでした。

 合戦に明け暮れた戦国時代が終わって、鎧兜を脱いだ「素肌剣法」の時代になってからは、自らの姿勢を崩さず、また生じる隙を最小限に留め、なおかつ相手の体勢を確実に崩す方法として、顔面攻撃(いわゆる面打ち)は最も効果的なものだったです。

 しかし、自分が効果的な方法として「面打ち」を試みれば、相手もやはり効果的な方法として「面」を打ってきます。互いに面を打ち合えば「相面勝負」になります。ですから相面に打ち勝つことが勝負の行方を左右します。

 宮本武蔵の「一つの打ち」、塚原卜伝の「一之太刀(ひとつのたち)」、柳生流新影流の「合し撃ち」、一刀流の「切落」など、技の名前や太刀筋は様々ですが、その極意は全て「初太刀の相面勝負」にあります。

 相面勝負に打ち勝つためには、

 1、相手より完璧に先に打ってしまう。    ・・・(懸の先)
 2、相手の打ち出す太刀に自らの太刀を乗せて太刀の軌道ごと斬り落として
  しまう。                 ・・・(体々の先)
 3、相手の打ち出す太刀を受ける摺り上げるなどしてその効力をなくしてか
  ら斬りつける。              ・・・(待の先)

などの方法があります。

 しかし、相手より先に打とうとして、先に手元を上げるとその小手を斬られたり、胴を抜かれたりしてしまいます。また、また相手の打ちを返そうと待ってしまうと後れをとって先に斬られてしまうこともあります。

 こういうわけで、結局「相面勝負」というのは、最終的には千分の1秒、万分の1秒の世界における「心と心の戦い」に行き着いてしまいます。言い換えれば、この「心と心の戦い」を制して、それを打突という動作に正確に結びつけられる「必然の法則(理法)」を探り修練するのが「剣道」ということになります。

 剣道の昇段審査では、よく「面を打たなければ合格しない」などと言われますが、これは「面を打てば合格する」ということではなくて、「心と心の戦いを制した」結果として面が打てたかどうかを見ているわけです。

 つまり、剣道六段・七段・八段という高段に受かった人というのは、単に剣の扱いが上手であるということではなく、こうした「心と心の戦い」を制した上で面を打つという理法をそれぞれのレベルにおいて自得しているということなのです。

 ですから、自分より上の段位の先生方と稽古するときには、この「心と心の戦い」を挑んで、その先生方が自得した理法を自らの身をもって学ばなければ勿体ないと言えます。

 そのため、上の先生に懸かるときには、安易にフェイント技で小手や胴を打つのではなく、「攻めて、溜めて、面を打つ」という稽古を何度も何度も繰り返します。

 もしも、「攻め」が弱かったり「溜め」が不十分だったりすれば、先生の剣先が動かないうちに打つことになり、その剣先でこちらの喉元を突かれてしまいます。かといって「溜め」過ぎて打ちが遅れてしまうと、先生に引き出されて返されてしまいます。

 攻めて、先生がその攻めに対応しようとして、剣先が中心から外れる刹那に一気に打ち込む気勢と体勢が身につけば、高段の先生にも面を打ち込むことができます。

 高段の先生への面の打ち込み稽古を通して、この一瞬の打突の機会を捉える微妙なタイミングを体得し身につけることが、「剣の理法を自得する」ということになります。

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